上田二朗氏は南部高1年冬に髄膜炎に…見舞われた人生の危機 元阪神、南海の名投手・上田二朗氏(野球評論家)は和歌山・南部高時代に大病を患った。1964年1月、高校1年の冬に体に異変が生じた。髄膜炎になり「1週間くらい40度超えの熱が続いた」。…
上田二朗氏は南部高1年冬に髄膜炎に…見舞われた人生の危機
元阪神、南海の名投手・上田二朗氏(野球評論家)は和歌山・南部高時代に大病を患った。1964年1月、高校1年の冬に体に異変が生じた。髄膜炎になり「1週間くらい40度超えの熱が続いた」。野球継続はもちろん、命の危険まであったという。そんな状況から何とか復帰したわけだが、その後、2年夏過ぎに南部・山崎繁雄監督から言われたのが「アンダースローに変えてみろ」。これが野球人生の転機となった。
上田氏にとって南部高1年冬の出来事は衝撃的すぎた。「(1964年の)正月明けに3年生の先輩が練習に参加してくれて、いろいろ話をするなかで、隣の駅の岩代までロングランしようってなったんです。あの時、その前からちょっと悪寒がしていて、寒いなぁ、寒いなぁ、体調も悪いなぁ、熱もあるなぁなんて思っていたんですけど、先輩の言うことだし、走らないといかんなぁと思って走ったんですよ」。何とか完走して戻って来たが、やはり普通の状態ではなかった。
「帰ってきて汗を拭いている時に一度フラフラっとしてぶっ倒れたらしいんですよ。自分のなかでは覚えてないんですけど、大丈夫かって支えられていたらしい。大丈夫だよって言っていたそうです。覚えているのは、その後。練習が終わって着替えに行こうと思ったら、体が動かなかったんですよ。じーっと部室のなかで座ったままで……」。仲間が助けてくれて着替えたが、頭痛も激しく、もはやフラフラ状態だったという。
「友達にバス停まで送ってもらったんだけど、その前に公衆電話でオヤジに『今からバスに乗るけど、頭が痛いから着いたら病院に連れていってほしい』と頼んだんです。オヤジが迎えに来てくれて、病院に行って検査しました」。結果、髄膜炎と診断された。「『これは厳しいよ』ってオヤジは病院の先生に言われたらしいです。それから1週間くらい、40度を超える熱が続いて……」。命に関わる状況だったという。
「普通の時でも頭の中を金槌でカーン、カーンと叩かれているような感じ。何か脈拍が頭を叩くような感じで続いたんですよ。自分では全く記憶にないんですけど、“とにかく頭が痛い”“とにかくガンガンに頭を叩かれている”というようなことも私は言っていたらしいです。後で聞いた話ですけど、医者は『あと3日ほど、この熱が続いたら、治っても運動はできなくなります』と言い、両親は『何とか命だけは助けてやってほしい』とお願いしたそうです」
病気を克服して野球部復帰→命じられたアンダースロー
そんな状態から回復できたのは「強い薬を使ったからと聞きました」と上田氏は話す。「医者が“助けるにはとにかく熱を下げないといけないので、強い薬を使います。それがうまくいけば普通の体に戻ります。もう一か八かですが、いいですか”って感じの話をオヤジにして、お願いしますって。それで勝負してくれたらしいです。それがうまくいって、翌日には熱が下がった。その決断をしてくれたおかげで私はその時、助かったんだと思っています」。
入院生活を経て、1か月くらいで学校生活には戻れたが、野球選手の体に戻すまでには時間がかかったそうだ。「練習に復帰したのはけっこう早かったと思いますが、まずは普通の体に戻すのが精一杯だったんでね」。練習試合で登板もしていたが、まだまだ万全とはいえない状態でのこと。“完全復帰”といえるところまで回復したのは、その年の夏すぎ、高校2年の夏が終わってからだったという。
「3年生が終わってチームが切り替わる時ですよね。その後、山崎監督に呼ばれて言われたんです。『エースは『(同級生の本格派右腕の)谷地がおるから、お前はアンダースローに変えろ』って。私自身、病気が治って、さぁ、やろうと言う時で普通に投げていたんですけどね。急に言われてもどんな投げ方かも知らなかったんですが、『とにかく下から投げろ、今日から投げろ』『足を上げて、ちょっと丸くして投げろ』と……」
言われるがままにやってみたという。「そしたら『すっごくいいフォームしているなぁ』っておだてられて、20球くらい投げたら『いいよ、OK。球持ちがいいからOKだ』って。終わってから監督に『ありがとうございました』と挨拶したら『何か質問あるか』と聞かれたので『アンダースローで頑張ったら試合に出してもらえますか』と言いました。そしたら『よくなれば出してやる』って。試合に出るのに飢えていましたから、頑張ろうって気持ちになりましたね」。
のちに阪神で大車輪の如く投げまくる伝説のアンダースロー。それが南部高で誕生した瞬間だった。上田氏にとって、まさに大きな転機だったが、すべてが順調に進んでいったわけではない。投げ方を変えたことで、これまで使ったことがない筋肉を使い、今度は体が悲鳴を上げはじめた。また新たな闘いの始まりだった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)