上田二朗氏は和歌山・田辺市から南部高へ“越境入学” 華麗なアンダスローとしてNPB通算92勝を挙げた、阪神レジェンドの上田二朗氏(野球評論家)は1963年、和歌山・南部高に進学した。「その頃、和歌山で一番野球が強かった学校だったので」と話す…

上田二朗氏は和歌山・田辺市から南部高へ“越境入学”

 華麗なアンダスローとしてNPB通算92勝を挙げた、阪神レジェンドの上田二朗氏(野球評論家)は1963年、和歌山・南部高に進学した。「その頃、和歌山で一番野球が強かった学校だったので」と話すように、野球で成長できるところを第一に考えての進学だった。だが、入学早々、試練の連続。1年春にはスライディング練習で右足甲を骨折し、同級生にはまたもや本格派右腕の存在が……。「中学でもナンバー2でしたが、高校でもナンバー2でした」と苦笑しながら振り返った。

 上田氏は田辺市立明洋中から和歌山県立南部高への進学を選択した。南部は1962年秋の和歌山大会を優勝。近畿大会は準々決勝で敗退したが、1963年の選抜大会初出場を決めていた。「監督がのちに南部町長にもなられた山崎繁雄さん。甲子園に出場させた監督で、チームも強かったし、いい選手を育成されていたので南部に行きたいと、オヤジに言いました。(南部は通学区域外の学校で)越境入学になるんですけど、どうしても行きたいと」。

 父からは「そんなレベルの高いところに行って野球できると思うか。野球がやりたいんだったら、自分がやりやすくて試合に出られるところにいけばいいじゃないか」と言われたそうだ。「あの時、越境では普通科には行けなかったんです。だからオヤジも『それでいいのか』ってね。でも私は『野球をしに行くんだから普通科でなくてもいい。勉強しに行くんじゃないんだから』と言って、オヤジに頼んでもらいました」。

 背景には、明洋中の同級生でライバルだった室井勝投手が15歳でプロ野球・大洋入りしたことがあった。「(他の高校で)自分がお山の大将で試合に出るんじゃなくて強いところで甲子園に出たい気持ちがあった。『そうじゃなかったら室井に勝てない』と僕はオヤジに初めてそう言いました。注目されるところで頑張って、もっと上のレベルで認められたい。プロ野球云々ではなくて、室井に負けたくない、その気持ちだけだったと思います」。

 自宅最寄りの田辺駅から南部高のある南部駅までは電車で2駅の越境通学ながら、強烈なライバル意識が進路にも影響を与えていたわけだ。そんな胸高ぶらせての4月の入学を前にした1963年3月30日、上田氏は甲子園球場のスタンドにいた。選抜出場の南部が1回戦で丸亀商(香川)と対戦。その応援に声をからした。延長11回2-3でサヨナラ負けに終わったが、いずれは自分がこの舞台で、と思ったのは言うまでもない。

またしても同学年に強敵「中学も高校も2番手だった」

 しかし、出足からつまずいた。練習で右足甲を骨折した。「サードへのスライディングでね。まぁ、怪我は時期が来たら治ったんですけどね」。選抜に出た南部のなかで、1年生から頭角を現すのは無理だった。「ピッチャーをやっていましたけど、もう全然です。チームは強いし、私もそんなところで出るようなレベルではなかったですからね」。のちに阪神で一世を風靡した下手投げではなく、上手投げの時代。やはり甘くはなかった。

 第45回の記念大会として1府県1代表が認められた1963年夏の全国大会。南部は和歌山大会を制して、春夏連続出場を決めたが、上田氏はこの時も応援部隊だった。この大会では甲子園球場と西宮球場が使われており、南部は2回戦から登場。金沢泉丘(石川)に2-0で勝利し、3回戦で桐生(群馬)に4-9で敗れたが、舞台はいずれも西宮球場だった。「金魚の糞みたいなもので、付いていくだけでしたよ」と笑う。

 3年生が抜けた1年秋も状況はあまり変わらなかったという。「練習試合とかではちょこちょこ投げさせてもらっていたんですけどね。もちろん、バッティングもやらせてもらったんですけどね」。しかもまたもや同学年に“強敵”がいた。「上富田から来た谷地君。これがまたホントにかっこいい室井みたいな投げ方をするんですよ。ピッチャーとして形ができていて、オーバーハンドで見た目にもエースらしいエースって感じで……」。

 最上級となる2年秋、その谷地がエースになった。「中学は室井、高校は谷地。私は中学も高校も2番手だったわけです」。上田氏は、そこから這い上がり、東海大で躍進して阪神で大活躍する投手になっていくわけだが、その大きなきっかけが、この南部高2年夏すぎから、アンダースローに転向したこと。それもまた苦難を乗り越えてのことでもあった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)