第97回選抜高等学校野球大会に初出場する千葉黎明。同校を率いるのは中野大地監督だ。中野監督の経歴はまさに野球エリート。名門・拓大紅陵でプレーし、甲子園準優勝経験もある小枝守監督から野球論を学び、04年に甲子園出場している。世代でいえば、ダル…
第97回選抜高等学校野球大会に初出場する千葉黎明。同校を率いるのは中野大地監督だ。中野監督の経歴はまさに野球エリート。名門・拓大紅陵でプレーし、甲子園準優勝経験もある小枝守監督から野球論を学び、04年に甲子園出場している。世代でいえば、ダルビッシュ有投手(東北)と同じ1986年世代である。
当時は世代屈指の強肩捕手として高校野球の雑誌では高く評価されていた。卒業後は名門・明治大に進学し、激しい競争を勝ち抜いて正捕手に。広島でも活躍する野村 祐輔投手(広陵)の1年生時にバッテリーを組んだ。明治大卒業後は休部となった日産自動車(25年に復活)で1年間プレーし、休部後はJFE東日本でプレーした。21年12月から同校の監督に就任し、初の甲子園出場に導いた。
中野監督の現役を知るファンからは「あの中野が監督になって甲子園か」という声も聞かれる。今回は中野監督にどんな野球人生を送ってきたのか振り返ってもらった。
拓大紅陵の3年間が野球人生と指導の土台に
——中野監督の在学時の拓大紅陵には名将の小枝守監督がいました。小枝監督の教えは大きかったでしょうか。
中野監督 自分の野球人生にとって一番の土台になりましたね。大学、社会人も続けましたけど、続けられるきっかけになりました。
——取材中、バッテリーについて深く教える姿を見ましたが、高校時代の経験によるものが大きいでしょうか。
中野監督 そこについては高校、大学、社会人での学んだことをミックスして指導していますね。
——高校での教えで基礎になっていることは何でしょうか。
中野監督 負けない野球をやる。小枝監督から『勝は知るべくして、なすべからず』という言葉を学びました。勝ちたいと思うだけで勝てるほど野球は甘くないということですね。
——当時の高校野球雑誌で覚えているのは中野監督は強肩捕手として大きく取り上げられていました。
中野監督 確かに肩には自信がありました。でも中学時代はそんなに自信がなかったんですよ。高校に入って、強肩の先輩捕手がいたので、そういった先輩を見様見真似でやっていたら自然と強くなった覚えがあります。
——2004年のセンバツでは初めて甲子園に行かれますが、あのときはどんな思い出が残っていますか。
中野監督 (小枝)監督さんに連れてもらったという印象が強いですね。当時の自分は目の前の1日を一生懸命過ごしていました。その結果がたどり着いたのかなと思いました。
——センバツに出場した時のエースは右サイドの伊能英孝投手がいましたね。
中野監督 懐かしいですね。彼はコントロールが良いですし、他の投手もよく、捕手のインサイドワーク、力量が試される投手陣でした。
激しい競争を勝ち抜き、明治大の正捕手を獲得
——そんな中で明治大に進学。どういうきっかけで進むことになりましたか。
中野監督 今は生徒の希望を聞いて進学先を決めているチームが多い時代です。当時は監督さんに言われたら、そこ(大学)にいけといわれる時代でした。拓大紅陵もそうで、私も小枝監督に「明治大にいけ!」といわれて、「分かりました」というしかありません。そんな形で東京六大学に進むことになりました。
——明治大では同学年、上級生、下級生にもエリートたちがいる中、3年生からスタメン出場を増やしていますが、どうやって掴み取ったのでしょうか。
中野監督 大変でした。ライバルがいて、そんな簡単ではなかったです。スローイング能力は自信があったのですが、それ以外も捕手としてゲームメイクする能力、投手の持ち味を引き出すリードにも自信がありましたし、捕手としての能力が認められたと思います。その部分は高校3年間で培ったのが大きいと思います。
——高校時代は捕手として鍛えられたんですね。
中野監督 リードの部分もそうなんですけど、捕手として必要な忍耐力が身についたと思っています。
——そして同学年の投手には元中日の岩田慎二投手(東邦)がいて、3学年下には広島で活躍した野村祐輔投手(広陵)とバッテリーを組んでいます。
中野監督 岩田については変化球が器用な投手でした。野村については、ストレートの威力、速さについては東京六大学内では普通でしたけど、やはりコントロールが抜群でした。バント処理の際のフィールディング、マウンド裁きもいいですし、打者を見る能力もありました。当時についてはプロ云々というより、野球選手として能力が高いと感心していました。1年秋の防御率0.00は本当に凄い偉業だと思います。
——プロ入りした投手とバッテリーを組んだということであれば、JFE東日本で須田幸太投手(元DENA)とも組んでいますね。
中野監督 彼はコントロールが本当に良かったですし、ストレートは140キロ前半ですけど、球質が良くて、打たれない。彼はストレートピッチャーですね。プロ入りした投手や、大学、社会人で活躍する投手を見て、「勝てる投手」の基準が出来上がりました。目に見えるボールの速さだけではないということですね。
高校野球において捕手の重要生は高い
——明治大を卒業して、1年間だけ日産自動車でプレーしました。非常にレベルの高い野球をやるチームだと聞きました。
中野監督 本当に細かく、レベルが高い。さらに、熱さというのは高校野球以上のものがありましたね。日産自動車になると、大学で活躍してきた優秀な選手。そして先輩も技量も高い選手が多くいますが、野球の細かさ、そして粘り強さを鍛えて、鍛えて、作り上げる感じです。だから妥協が許されない環境でした。
——そういったところが今につながっているところはありますか。
中野監督 もちろんあります。先輩たちの勝負への執着心、勝つことへの執着心がすごかったです。当時の神奈川には三菱重工横浜(現・三菱重工East)、ENEOS、東芝と強力なライバルが多くいて、ここに勝たないと都市対抗に行けない厳しい環境があったからこそ作り上げたと思います。
——ここまでの経験を聞くと、やはり指導になると一番厳しいことを要求するのは捕手になりますよね。
中野監督 求めることは多くなりますね。私が捕手というより、高校野球のカテゴリーにおいて捕手の重要性は本当に高い。捕手が弱いとしんどいです。
——捕手においてリード、キャッチング、スローイングなど求められますが、最初は捕ることをしっかりとやったほうがいいのでしょうか?
中野監督 捕ることと投げることは別個で考えられているのですが、私はセットだと思っています。送球能力、キャッチング能力は同時に鍛えるべきですね。リードも成長してほしいですが、まずはスローイング、キャッチングです。それがない捕手はまず勝てません。
——最悪、リードはベンチから指示を出せますからね。
中野監督 そうです。それは目指している本来の姿ではないですけど、勝てるリードを覚えるのは時間がかかります。選手がしっかりと考えてできればいいですが、困ったときは私が出すようにします。
——中野監督が指導してきた正捕手の川村力斗選手(3年)は育ってきた感じはありますか。周囲からは強肩の捕手として評価が上がっています。
中野監督 秋の大会では盗塁阻止率が高く、大事なところを刺してくれました。非常に大きかったです。入学から成長はしています。課題を上げれば、捕手のスキルをもっと突き詰めようとする意欲がほしいです。すべてにおいて、リードスローイング、キャッチングなどもっと欲を出せれば成長できる捕手です。
——甲子園が決まりましたが、どんな思いですか。
中野監督 甲子園というのはいろんな学校、指導者が目指して戦っている場所です。私も目標として思っていたんですけど、いくらやっても叶わない場所かもしれないと手探りをしながら進んできました。その中で選手たちに対して、我々と大切にしている野球の戦い方をグラウンドで発揮しようと言う中で得た結果だと思います。
——いよいよ本番が近づいています。最後に意気込みをお願いします。
中野監督 もちろん学校関係者、生徒、保護者の方々で、千葉黎明高校の校歌を歌うことです。試合後、勝利したチームが校歌を歌うというのは高校野球独自の文化です。野球部が勝つことによって、アルプススタンドで一般生徒のみんなが黎明高校の校歌を良い顔をして、歌ってくれることを思い浮かべながら、みんなで共有できるような場が高校野球の魅力の1つだと思いますので、それが実現できればと思います。
<中野大地(なかの・だいち)>
1986年12月14日生まれ。市原ポニーでプレーし、02年に拓大紅陵に入学し、1年夏に甲子園出場を経験。そして3年春には正捕手として甲子園出場を果たし、1勝を挙げた。05年に明治大に入学。2年秋(06年秋)からリーグ戦に出場し、通算44試合出場で、118打数25安打、1本塁打13打点、打率.212を記録した。卒業後は日産自動車でプレーし、同野球部の休部に伴い、JFE東日本に移籍し、主将も務めている。21年7月に千葉黎明のコーチに就任し、12月から監督に就任した。