甲子園を知り尽くしたベテラン監督が、唯一手にしていない春の栄冠を狙う。第97回選抜高校野球大会で、明徳義塾(高知)の馬淵史郎監督(69)は、監督として史上最多の春夏通算39回目の甲子園出場となり、第1日の18日に健大高崎(群馬)との…

甲子園を知り尽くしたベテラン監督が、唯一手にしていない春の栄冠を狙う。第97回選抜高校野球大会で、明徳義塾(高知)の馬淵史郎監督(69)は、監督として史上最多の春夏通算39回目の甲子園出場となり、第1日の18日に健大高崎(群馬)との1回戦に臨む。就任当初は「1回甲子園に出られればいい」と思っていたが、その気持ちを変えた出来事が34年前にあった。
「回数出たから偉いわけじゃないけど、就任35年で39回か……。振り返るとよう出たなと。選手のおかげやね」
1月下旬、高知県須崎市の山あいに位置する練習グラウンドで、しみじみと歩みを振り返った。
昨秋はエース左腕の池崎安侍朗投手を中心に4年ぶりに四国大会を制し、センバツ切符を引き寄せた。監督として春17回、夏22回、計39回の甲子園出場は、智弁和歌山などを率いた高嶋仁さん(78)の38回を抜いて単独最多となった。
社会人野球の阿部企業監督を経て1987年から明徳義塾のコーチになり、90年に監督に就任した。当時34歳。それまで甲子園には春4回、夏1回出場していた明徳義塾だが、高知県内は強豪がひしめき合い、突出した存在ではなかった。
「せっかく監督をさせてもらえるなら、1回甲子園に出られたらいいなと思っていた」と懐かしむ。
青年監督の控えめな意識を変えたのは、就任から1年で監督として初出場に導いた91年夏の甲子園だった。
大観衆が詰めかけた開会式。「聖地」で堂々と行進する教え子たちの姿に感極まった。「今でも感動するけど、1回目は特に感動して涙が出た。何がなんだか分からないような、ボーッとした状態で試合に入ったのを覚えている」
無我夢中で臨んだ開幕日の1回戦で市岐阜商を降し、指導者として甲子園初勝利。2回戦で敗れたが、甲子園の魅力に取りつかれた。
「1回出たら2回。30回出たら31回出たくなる。大人もそうなる魅力が甲子園にはある」
貫いてきたのが、投手を中心とした「守り勝つ野球」だ。理由はシンプル。「勝つ確率が高いから」だ。
「好投手はそうそう打てないし、打撃は波がある。どんなに良い投手(が相手)でも(1試合に)3回は失策などでチャンスが来るから、打って何点も取ろうとするよりも、点を与えない方が(勝つ)確率が高い」
92年夏には星稜(石川)の4番・松井秀喜選手を5打席連続で敬遠し、物議を醸したこともあったが、冷静な分析に勝負師の顔がのぞく。
2002年夏には悲願の全国制覇。監督として歴代4位となる甲子園春夏通算55勝を積み上げた今も、甲子園への思いは変わらない。
最多出場の節目となる今大会の1回戦は、監督として初めて臨んだ34年前の夏と同じ、大会初日の第3試合。相手の健大高崎は最速154キロ右腕の石垣元気投手ら複数の好投手を擁する前回王者だが、浮足立つことはない。
「最多出場だから(特別なことを)という気持ちはこれっぽっちもない。いつも通りの野球ができれば勝負になる。明徳の値打ちが問われる試合になるからワクワクするね」
24年から新基準の低反発バットが導入されたことも追い風になっている。長打が減ったことでロースコアの接戦が増え、小技や守りの重要性が増した。
各校が対応に苦心する中、伝統の「スモールベースボール」で昨夏の甲子園は16強入り。昨年10月の国民スポーツ大会では夏の甲子園を制した京都国際に勝つなどして優勝した。
「時代が変わっても、うちの野球は昔からこれ。守りが安定しているのは低反発バットだと大きい」と余裕すら感じさせる。
夏の甲子園、明治神宮大会、国民スポーツ大会に加え、高校日本代表監督としてU18(18歳以下)ワールドカップ(W杯)を制するなど、数々の栄冠を手にしてきた。唯一届いていない春の優勝へ、思いは強い。
「集大成の頃だし、何回も踏めるところじゃない。めったに言わないけど、今回は優勝戦線に加わりたい」。自身の節目に悲願の頂点を狙う。【皆川真仁】
馬淵史郎(まぶち・しろう)
1955年11月28日生まれ。愛媛・三瓶高では甲子園出場はなし。拓大卒。社会人野球・阿部企業では監督として86年の日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾監督を務め、2002年の選手権大会で優勝。22、23年はU18W杯日本代表を率い、23年に初優勝した。