ボーグスは、高さが物を言うNBAで160cmながら長きにわたりプレー photo by Getty ImagesNBAレジェンズ連載42:マグジー・ボーグスプロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超え…


ボーグスは、高さが物を言うNBAで160cmながら長きにわたりプレー

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NBAレジェンズ連載42:マグジー・ボーグス

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第42回は、NBA史上最も小さい身長でその存在感を歴史に刻んだマグジー・ボーグスを紹介する。

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【荒れた環境をバスケで生き抜きトップステージへ】

 173cmの河村勇輝が2ウェイ契約選手として奮闘している2024-25シーズンだが、実はNBA史上最も低い身長160cmながら14シーズンのNBAキャリアを構築した選手がいる。その名はマグジー・ボーグス。NHKが放映した『奇跡のレッスン・バスケットボール編』(2015年)に登場した人物である。

 ボーグスは、メリーランド州ボルティモアの犯罪と薬物が蔓延する治安の悪い地域で生まれ育った。5歳の時には腕を銃で撃たれて入院したり、野球のバットで男性が殺されたのを目撃したことは、大人になってもトラウマとして悩まされたという。また、父親は12歳の時に強盗で逮捕され、禁錮20年で刑務所入りしていた。

 経済的にも非常に苦しい家庭環境にあるなか、ボーグスは自宅近くのプレーグラウンドでバスケットボールをやることが、危険や犯罪から逃げる唯一の手段になっていった。小さい時からほかの子よりも身長が小さかったが、並外れたクイックネス、コート全体を見渡せる視野の広さ、負けず嫌いという点では負けなかった。ちなみにNBAでの通称「マグジー」とは、ある映画の登場人物に似ていることから、子どものころに付けられたニックネームと言われている。

「私はほかの子どもと同じ願望を持っていたが、それからくる反発というものを知らなかった。人々は"お前なんかやっていけない、できない"ということを言っているだけ。それは本当に私を苛立たせたし、人々が間違っていることを本気で証明したいという個人的な思いになり始めたんだ」

 こう語ったボーグスはダンバー高校に進むと、デビッド・ウィンゲート、レジー・ウィリアムス、レジー・ルイスというのちにNBAでプレーした選手たちとチームメイトになった。1981-82が29勝0敗、1982-83が31勝0敗という無敗のシーズンを過ごすのに貢献し、『USAトゥデイ』紙から全米ナンバーワンチームと認定された。

 NCAAディビジョンIの大学からリクルートされたボーグスは、ノースカロライナ大やデューク大などが所属するアトランティック・コースト・カンファレンス(ACC)のウェイク・フォレスト大への進学を決断。2年生時からレギュラーになると、4年生時には平均14.8点、9.5アシスト、3.8リバウンド、2.4スティールを記録。アシストとスティールはACCでトップの数字だった。1986年にはアメリカ代表に選ばれ、世界選手権(現FIBAワールドカップ)で金メダルを獲得している。

 1987年のNBAドラフトでは、1巡目12位でワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)に指名され、このシーズンにNBA史上最長身選手であるマヌート・ボル(231cm)と一緒にプレーした。ボーグスとボルが一緒に写った写真は、2024年にグリズリーズの河村勇輝(173cm)とザック・イーディ(221cm)のツーショットのオリジナル版とも言える。

「ドラフトの前、ブレッツは私に何の関心も示さなかった。しかし、チームが私のバックヤード(ボルティモアに近いワシントンDC)にあるから、(指名されて)本当にうれしかった。家の近くでプレーできるとは思ってもいなかった。これ以上ないくらいうまくいったよ」

【新設球団・ホーネッツで才能開花】


ホーネッツではLJ(ジョンソン、左)、Zo(モーニング、右)とのトリオでプレーオフチームに

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 ルーキーシーズンから79試合に出場したボーグスは、1シーズンでブレッツを去ることになる。リーグの球団拡張に伴い、1988年6月に行なわれたエクスパンション・ドラフトで、シャーロット・ホーネッツから指名を受けたからだが、この移籍がキャリアの大きな転換点となる。

 初代ヘッドコーチのディック・ハーターはボーグスをベンチから起用したものの、結果が出ずにわずか1シーズンで解任される。そして、その後を継いだアップテンポなオフェンスを採用したジーン・リトルズとアラン・ブリストウというふたりの指揮官によって、ボーグスはプレーメーカーとしての才能が開花する。NBA3年目となる1989−90シーズンは81試合中65試合で先発し、平均9.4点、10.7アシストと活躍した。

 1991年にはラリー・ジョンソン、1992年にアロンゾ・モーニングのドラフト指名に成功したホーネッツは、1992-93シーズンのレギュラーシーズンで44勝38敗の成績を残してチーム史上初となるプレーオフに進出。ボストン・セルティックスとの1回戦でボーグスは、平均8.8点、9.8アシストでカンファレンス準決勝進出に貢献した。

 1992-93から3シーズン連続で2ケタの平均得点を記録したが、1995年夏に左ひざの手術を受けたあとに3度故障者リスト入りするなど苦しみ、スタッツも下降し始める。

 1995年11月にトレードでモーニングがマイアミ・ヒート、1996年7月にジョンソンがニューヨーク・ニックスに移籍。ブリストウコーチもプレーオフ進出を逃した1995−96シーズンを最後にチームを去ると、後任のデーブ・コーウェンスは、左ひざの問題を理由に、ボーグスは引退を考えるべきという姿勢を取った。チームとの関係も徐々に悪化し、1997年11月にゴールデンステイト・ウォリアーズへトレードされ、チーム創設時から10年間プレーしたホーネッツに別れを告げたのである。

「我々にはチャンスがあった。紙面上での我々はよかったけど、そういった物事は起こるもの。ホーネッツはアロンゾに投資したくないと判断し、彼はその才能をサウスビーチ(マイアミ)に持っていった。我々がやろうとしていたことで一貫性をもたらす本物のセンターを失った。その後、LJ(ジョンソン)がケガをするなど、多くのことが起こったんだ」

 こう語ったボーグスは、ウォリアーズで過ごした1シーズンで5.8点、5.5アシストを記録。1999年夏にフリーエージェントになったボーグスは、トロント・ラプターズと契約。ホーネッツ時代のチームメイトだったデル・カリー(ステフィン・カリーの父)と一緒にプレーし、バックアップのポイントガードながら、2000年3月3日のセルティックス戦でキャリア最高となる24点を記録した。

 しかし、ひざの問題に悩まされ続けた結果、2000-01シーズンに出場できたのはわずか3試合。2001年2月にニックスへトレードされたが、チームに合流しなかった。8月のトレードでダラス・マーベリックスに移籍するも、母がガンと闘っていることを理由にプレーしないことを決断すると、NBAのコートに戻ってくることはなかった。

 200cm超の大男たちのなかで、160cmの身長で活躍し続けたボーグスは、まさにNBAの歴史における「奇跡」と言える。試合へのアプローチについて、ボーグスは次のように語っている。

「常に自分がフロアのリーダーだと感じていた。チームメイトもそれを知っていたし、尊敬していた。だから、私はそういうプレーをしなければならなかった。チームが勝つために何が必要かを常に理解しなければならなかった。それが僕のポジションに求められていたことなんだ」

 現役引退後はWNBAのシャーロット・スティング(2007年1月に消滅)、ユナイテッド・フェイス・クリスチャン・アカデミーという高校などでヘッドコーチを経験。その後はホーネッツのアンバサダーを務める傍らで、自身が設立した財団の運営を続けている。

【Profile】マグジー・ボーグス(本名の英語表記はTyrone Curtis Bogues)/1965年1月9日生まれ、アメリカ・メリーランド州出身。1987年NBAドラフト1巡目12位指名。
●NBA所属歴:ワシントン・ブレッツ/現ウィザーズ(1987-88)―シャーロット・ホーネッツ(1988-89〜1997-98途)―ゴールデンステイト・ウォリアーズ(1997-98途〜1998-99)―トロント・ラプターズ(1999-2000〜2000-01)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)