サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、「意外に長~い」その歴史。

■運命の「分岐点」と亡命者クラブ

 ラズロ(ラディスラオ)・クバラは「プロ・パトリア」でプレーしていたころ、セリエAの圧倒的チャンピオンだった「ACトリノ」から親善試合でゲストとしてプレーしてくれないかと誘いを受けた。彼はこころよく引き受けた。だが直前になって息子が病気にかかり、参加をキャンセルしなければならなくなった。彼の運命の大きな分岐点だった。

 1949年5月3日、ACトリノは、キャプテンのバレンチノ・マッツォーラの依頼でポルトガルの名門ベンフィカとの親善試合を行った。ベンフィカのキャプテン、フランシスコ・フェレイラへの感謝試合だった。クバラはこの試合に「ゲスト」として招待されていたのだ。ところが、試合を終えた翌5月4日、ACトリノの選手や役員を乗せた航空機がトリノ市郊外の丘に激突、搭乗していた31人全員が亡くなった。「スペルガの悲劇」と呼ばれる事故である。クバラのキャリアは奇妙なめぐり合わせでできている。

 この年の暮れ、ハンガリーサッカー協会は国際サッカー連盟にクバラの資格停止を告発した。バシャシュとの契約違反、無許可出国、そして兵役不履行などの「罪状」に、FIFAの裁定は「1年間の公式戦出場停止」だった。クバラはプロ・パトリアを離れ、1950年1月、東欧諸国からの亡命者を集めて「ハンガリア」というクラブをつくって活動を始める。

■スペイン「2強」からのオファー

 1950年夏、「ハンガリア」はスペインに飛び、いくつかの親善試合をこなす。そして、このときのプレーに目をつけたレアル・マドリードとFCバルセロナの両クラブからオファーを受ける。レアルが有利かとみられていたのだが、最終的に契約にこぎつけたのはFCバルセロナだった。

 バルセロナの役員が当時のスペインのフランコ政権内にコネを持っており、そのコネがクバラ説得に使われたという。フランコ政権は強烈な「反共政策」をとっており、ソ連の「衛星国」となったハンガリーからの亡命者クバラを政権のプロパガンダとして利用しようとしたと言われている。そのため、クバラのスペイン国籍取得もスムーズに進んだ。

 半年間は「公式戦出場停止」だった。その間の親善試合でゴールを量産し、クバラはFCバルセロナでの地位を不動のものとする。そして、ここでようやく「安住の地」を得るのである。1951年から1961年まで、10年半でクバラはスペイン・リーグで186試合に出場して131ゴールを記録、1953年にはスペイン代表にもデビューし、1961年まで19試合に出場した。ただ残念ながら、ワールドカップ出場の機会には恵まれなかった。35歳で迎えた1962年チリ大会にはメンバーに選ばれていたのだが、ケガで辞退を余儀なくされたのである。

■条件クリアで「他の国」のA代表に

 おっと、クバラの「4つ目の代表チーム」を忘れるところだった。バルセロナを「第二の故郷」としたクバラは、1954年から1963年まで「カタルーニャ代表」としてプレー、4試合で4得点という記録を残している。もちろん、カタルーニャは今もスペインの一部であり、カタルーニャ・サッカー協会がFIFAに加盟しているわけではないが…。

 現在、FIFAは、代表選手の国籍変更に関して厳格なルールをつくり、ワールドカップを目指したり、リーグの「外国人枠」を逃れるための安易な国籍変更を制限しているが、いくつかの条件をクリアすれば、A代表の経歴がある選手が他の国のA代表になることを妨げてはいない。

 また、こうした「国籍変更選手」の動きの透明化を向上させるために、FIFAは今年1月から情報を公開する「デジタル・プラットホーム」を立ち上げた。

 ルールがあれば、そのルールをうまくクリアする形でさまざまな「国籍変更」のトライがなされるのが、人間社会の常である。

 ワールドカップに行ってみたら、出場選手の半分がブラジル人だったなどというのは本当に興ざめだが、「国籍変更選手」による代表チーム強化は加速する一方の状況にある。それによって、今後10年間で世界のサッカーの勢力図が大きく変わっている可能性も否定できないのである。

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