イギリスと言えば、フットボールの母国だ。当然、蹴球放浪家・後藤健生も、何度も足を運んでいる。イングランド最北の地では、「フットボールの神髄」に触れることができた。■つかみ合い、ケガ人も出る「フットボール」 イングランドのアニックという街に…

 イギリスと言えば、フットボールの母国だ。当然、蹴球放浪家・後藤健生も、何度も足を運んでいる。イングランド最北の地では、「フットボールの神髄」に触れることができた。

■つかみ合い、ケガ人も出る「フットボール」

 イングランドのアニックという街に行ったときの出会いは本当に偶然でした。

 スコットランドと境界を接するイングランド最北部、ノーサンバーランド州北部にある人口が7000人ほどの、ノーサンバーランド公爵パーシー家の城下町です。

「Alnwick」と書いて、「アルニック」と読みます。

 どうして、わざわざそんな田舎町に行ったのかというと、そこでは今でも中世以来の伝統的なフットボール(民俗フットボール)が行われていると聞いたからでした。

 イングランドやスコットランドなどでは、中世から「フットボール」という名の遊びが行われていました。

 基本的にはボールなどを相手陣地に運び込んだら勝利という遊びですが、現代のサッカーのような厳密な(時には厳密すぎる)ルールなどはなく、たいていは大勢の住民が参加して行われます。畑でも、民家の庭先でもおかまいなし。ボールを運ぶ方法も投げてもいいし、蹴ってもいいし、抱えて運んでもいい。ボールを奪い合うときにはつかみ合い、殴り合いも発生。大勢のケガ人、時には死者が出ることもありました。

 政府はこの遊びを何度も禁止しますが、廃れたことはありませんでした。

■パブリックスクールの「授業の一環」に

 フットボールは、キリスト教の「告解の火曜日」という祝日に行われます。たいていは、2月。寒い時期に村人たちがこぞって参加するお祭りでした。都会に働きに出ている人たちも、この祭りのために故郷に帰ってきます。そして、村人たちは、川の北側と南側とか、教会の教区ごとに分かれて、勇猛果敢にボールを奪い合うのです。

 18世紀頃になると、私有地の概念が確立されたため、街中を暴れまわるフットボールを続けることが難しくなって、次第に民俗フットボールは行われなくなってしまいました。

 その代わりに、寄宿舎制のパブリックスクールで授業の一環としてフットボールが取り入れられます。「パブリックスクール」というのは、貴族や資本家階級などの上流階級の子弟が通う学校でした。

 学校教育の一環ですから、ルールも定められます。しかし、学校の校庭の状態(芝生か、石畳か。広いか狭いか……等々)によって、ルールはバラバラでした。

■サッカーと「ラグビー」に分かれて発展

 その後、パブリックスクールの卒業生たちは大学生や社会人になってもフットボールを続けたくて、フットボール・クラブを設立します。しかし、やはりルールはクラブごとに異なっていたのです。

 そして、1863年になって、ロンドンのクラブの間で統一ルールを作ることにとなり、創設されたのがフットボール・アソシエーション、つまり「FA」(協会)でした。そこで作られた統一ルールがアソシエーション・フットボール。つまり、サッカーとして発展していきます。

 統一ルールの普及には時間がかかりましたが、次第にフットボールはサッカーとラグビーに分かれて発展していきます。

 しかし、中世から行われていた民俗フットボールを今でも行っている街がいくつかあります。その一つがアニックだったのです。

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