サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は、「意外に長~い」その歴史。

■日本を救った「左サイドの職人」

 日本にルーツを持つわけではなく、日本で長くプレーする中で国籍をブラジルから日本に変え、日本代表としても活躍したのが、呂比須ワグナー(日本代表1997~1999)と三都主アレサンドロ(同2002~2006)だった。呂比須は日本をワールドカップ初出場に導く活躍を見せ、三都主は左サイドのスペシャリストとして2回のワールドカップに出場した。

 とはいえ、世界的に見れば、「国籍変更選手」の歴史はもっともっと長い。1934年の第2回ワールドカップ(イタリア)のイタリア代表には、4人もの「元アルゼンチン代表」がいた。

 FWライムンド・オルシは1928年アムステルダム五輪での活躍を認められてイタリアに渡り、以後イタリア代表で活躍した。MFルイス・モンティとFWアティーリオ・デマリアは1930年の第1回ワールドカップ準優勝アルゼンチン代表メンバー。FWエンリケ・グアイタは1933年にアルゼンチンからイタリアに移った。チェコスロバキアを2-1で下した1934年ワールドカップ決勝戦には、デマリアを除く3人が出場した。

 アルゼンチンはスペイン語の国で、スペインから独立したのだが、現在の民族構成で一番多いのはイタリア系で、全人口の3分の1を占める。当然サッカー選手もイタリア系が多く、イタリアのクラブに移籍すると、すぐにイタリア国籍を取得することができた。また、1934年のワールドカップでは、地元優勝を飾るべく、国家挙げてのバックアップがあったから、優秀な選手には迅速にイタリア国籍を与えたという。

■究極の「国籍変更」スター選手

 だが、「究極の国籍変更選手」といえば、ラズロ(ラディスラオ)・クバラだろう。1940年代から1960年代にかけて、彼は、チェコスロバキア、ハンガリー、そしてスペインと、3か国の代表チームでプレーした。

 生まれはハンガリーの首都ブダペスト。工場労働者だった母は、そのルーツをポーランド、スロバキア、ハンガリーに持っていた。レンガ職人だった父は、ハンガリーで暮らす少数民族のひとつであるスロバキア人だった。1927年6月10日に生まれ、後に6か国のリーグ、3つの代表チームでプレーし、5か国で監督を務めたクバラは、自分自身を「コスモポリタン(世界市民)」と表現していた。

 彼はブダペストにある3部リーグの小さなクラブのユースチームでキャリアをスタートさせたが、彼の特別な才能は幼いころから明らかで、11歳のときにはアンダー16のチームに入ってプレーしていたという。そして18歳のときにハンガリーきっての名門であるフェレンツバロシュと契約する。しかし、翌1946年、19歳になったとき、チェコスロバキアのスロバン・ブラチスラバに移籍する。ハンガリーの兵役を逃れるためだった。

■安住の地を求めて「国外逃亡」

 父母の「祖地」だったこともあり、すぐにチェコスロバキア国籍を与えられ、代表にデビューし、6試合に出場して4得点を記録する。しかし、チェコスロバキアも彼に兵役に就くことを求めたため、わずか2シーズンでハンガリーに戻り、1948年夏、バシャシュ・ブダペストに移籍する。そしてハンガリーのパスポートも放棄していなかったため、ハンガリー代表として3試合プレーする。

 しかし、第二次世界大戦後の世界の急速な変化はクバラに「安住の地」を与えなかった。ハンガリーではナチスドイツと連合していた王権が倒れ、1946年に共和国が誕生していたが、次第にソ連の影響が強くなり、1949年8月、「ハンガリー人民共和国」となってソ連の「衛星国」のひとつとなった。

 クバラはこれを嫌い、その数か月前にトラックの荷台に乗ってブダペストを脱出、国外に逃亡した。逃亡先はオーストリアのアメリカ占領地域。そこからイタリアに渡り、「プロ・パトリア」というセリエAのクラブで短期間プレーした。

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