今年のジャパラでも好調だった山田拓朗 1年前のリオパラリンピック。水泳・男子50m自由形(S9)決勝のフィニッシュは、ほぼ横一線だった。一斉に顔を上げ、電光掲示板に視線を移す選手たち。上から3番目に、自分の名前と「26.00」の文字を確認し…



今年のジャパラでも好調だった山田拓朗

 1年前のリオパラリンピック。水泳・男子50m自由形(S9)決勝のフィニッシュは、ほぼ横一線だった。一斉に顔を上げ、電光掲示板に視線を移す選手たち。上から3番目に、自分の名前と「26.00」の文字を確認した山田拓朗(NTTドコモ)は、右手で作った拳(こぶし)を水面に叩きつけた。

 13歳で初出場した2004年アテネ大会から、ずっと目標にしてきたメダル獲得。山田の12年目の結実に、観客席では同じ釜の飯を食い、苦楽を共にしてきた仲間やスタッフたちが、自分のことのように喜んでいた。山田はその声援をかみしめるように笑顔で手を振った。

 だが、報道陣に囲まれた山田は、こう言い切ったのだった。

「目標タイムの25秒台には届きませんでした。評価しているのは、パラリンピックの舞台でこの得意種目の自己ベストを2回更新したことと、メダルを獲れたことだけ。あとは反省点です」

 1位の記録は25秒95、そして2位は25秒99。トップとの差はわずか0.05秒。僅差の3位だった。

「大満足というよりは、悔しさの方が強かったですね」

 1年前の出来事を、山田はこう振り返る。

「でも、気持ちの切り替えは過去の大会と比べてもスムーズにできたかなと思います。リオで(これまでの取り組みが)悪い方向には行っていないという確認もできましたし、練習しなきゃ強くなれない、ということも改めて感じた。次こそは自分の目標を達成したいって思えました」

 0.05秒のなかに見た、悔しさと現在地。それは、彼を次のステージへと押し上げる原動力となった。

 生まれつき左腕の肘から先がなく、幼いころから水とともに生きてきた。幼稚園の時にはすでに4泳法をマスターし、一般の大会でも上位に入るなど、活躍が光っていた。

「パラリンピック」を意識したのは、2000年のこと。シドニー大会で当時の所属チームの先輩だった視覚障がいの酒井喜和さんが、男子100m背泳ぎで優勝。帰国後にキラキラと輝く金メダルを見せてもらい、少年の夢は広がった。

 2度目のパラリンピックとなった2008年北京大会では100m自由形で5位。その先をイメージし、進学した筑波大ではオリンピックを目指す選手と肩を並べて練習し、2012年ロンドン大会では50m自由形で4位となった。卒業後は、2015年11月からロンドンオリンピック銅メダリスト・立石諒選手らトップアスリートを育てた高城直基コーチに師事している。高城コーチは、山田の入水時の姿勢に改善の余地があることを指摘。入水時の姿勢が悪いと水の抵抗を受けてしまうことから、水平姿勢を維持するためにインナーマッスルを鍛えるトレーニングを課してきた。

 山田の専門である50m自由形では、スタートがタイムのカギになる。高城コーチの指導のもと、スタートから浮き上がりの初速に磨きをかけた山田は、さらに呼吸数を減らした。これまで山田は、50mを2回の息継ぎで泳いでいたが、リオでは1回にした。S9は脳性麻痺の選手もいるクラス。両手が使える彼らに勝つために、泳ぎの精度を高めてきたのだ。

 そして今、山田はリオの経験を糧に、2020年に向けて再び挑戦を始めている。スタート技術のさらなる向上を目指し、この1年は「身体のパワーアップ」を特に重点的に取り組んできた。義手を使ったトレーニングで、左右のバランスを調整して、「身体の変化は実感しているし、力の発揮もかなりよくなってきている感覚がある」と手ごたえを口にする。

 また、リオ後に「50m自由形以外の種目でも世界と戦えるように」と話していたように、新たに100mバタフライと個人メドレーも泳ぐようにしている。バタフライはクロールに近い呼吸動作ができる”片手バタフライ”を模索しているところだ。

 左手が短い山田の場合、両手バタフライにすると、呼吸動作で水面に上がるときに体が傾く。水平に保つためには、左側の背筋をかなり使うことになってしまう。片手にすれば推進力は失われるものの、呼吸動作での体力の消耗を軽減できるという計算だ。実際に記録は伸び、9月のジャパンパラ競技大会でも日本記録を更新するなど好調を維持している。

 この新たな取り組みは、それぞれ相乗効果が期待できる点も大きい。「片手バタフライは右手のストローク技術が向上すれば、50m自由形にも生きてくると考えています。個人メドレーに関しても、力の抜き方や入れ方が必要で、効率よく泳ぐための体の動かし方が今までよりも上手になれば、やはり50mも速くなるのかなと思いますね」と山田。また、スプリンターの山田にとって、ほかの種目に挑戦することが、「いい気分転換になっている」そうだ。

 9月30日には世界選手権が開幕する予定だった。会場のメキシコシティは、標高2250mにあり、高地の大会は初めての山田は、前途の通り、リオの50m自由形では息継ぎ1回で泳ぎ切ったが、「(酸素が薄い)高地では2回でも行けないかもしれません」と話していた。一方で呼吸数が増えると一気にスピードが落ちるため若干不利なところはあるかもしれないというが、「(同時にエントリーしている)100mバタフライは状態がいいです。片手バタフライは体力もかなりセーブして泳げる方だと思いますし、確実に決勝で戦える力がついてきたので、そっちは逆に楽しみですね」とと意欲を見せていたが、メキシコ地震により大会は延期となってしまった。

 リオから帰国後、ホテルやコンビニなどで声をかけられることが増えたという山田。「憧れなんです、という子どもが多かったです。モチベーションになりますよね」と笑顔を見せる。17年前の自分がそうだったように、いま、自分のメダルに目を輝かせる子どもたちがいる。

「僕の泳ぎを見て、何かを感じ取ってもらいたい。そんなパフォーマンスが発揮できるよう、トレーニングを頑張りたいなと思っています」

 日本屈指の隻腕(せきわん)スプリンターは、これからもひたむきに自分の泳ぎを追求していく。