ワールドカップ予選が各地で進み、サッカー日本代表は次の試合に勝てば、本大会出場が決まる。一方で、日本が入るグループCは大混戦。2位のオーストラリアから最下位の中国まで、勝点1しか差がないのだ。日本は、すでに中国との2試合を終えているが、蹴…
ワールドカップ予選が各地で進み、サッカー日本代表は次の試合に勝てば、本大会出場が決まる。一方で、日本が入るグループCは大混戦。2位のオーストラリアから最下位の中国まで、勝点1しか差がないのだ。日本は、すでに中国との2試合を終えているが、蹴球放浪家・後藤健生は、とっくの昔、半世紀近く前に、中国のスカウティングを済ませていた!
■行方不明の兵士は無事に「帰隊」も…
「盧溝橋(ろこうきょう、ルーコーチアオ)」という橋をご存じだろうか?
歴史にご興味をお持ちの方は「盧溝橋事件」という日中戦争の発端となった事件(1937年)をご記憶だろう。その舞台となったのが「盧溝橋」だ。
日本は1904~05年の日露戦争の後、中国東北部の満洲に勢力を伸ばし、ロシアから利権を得た南満州鉄道を管理するために、遼寧省の旅順(現在の大連)に「関東軍」を置いていました。その関東軍は次第に満洲の支配を強め、1932年には清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)宣統帝、愛新覚羅溥儀を擁立し、ついに傀儡政権である「満洲国」を樹立しました。
その後、日本軍はさらに中国北部(華北地方)に進出。北平(ペイピン、現在の北京)郊外の豊台(ほうたい)にも日本軍(支那駐屯軍)が駐屯していました。
その支那駐屯軍が、北平郊外の永定河に架かる盧溝橋付近で演習を行っていたところ、中国国民党の国民革命軍から攻撃を受け、兵士1名が行方不明となったことから戦闘状態となり、これがきっかけで日本と中国は戦争状態に発展してしまうのでした(行方不明の兵士は、無事に帰隊しました)。
事件が起こった7月7日は、中国では「七七抗戦記念日」とされています。
■どこのホテルに泊まるかも「不明」
さて、「その盧溝橋に行ってみよう」と思い立ったのは、1979年9月に中国に初めて行ったときのことでした。
僕が大学生のときに所属していた慶應義塾大学のゼミの学生旅行で中国に行くというので、OBとして同行させてもらったのです。
なにしろ、当時は日本人は中国に自由に渡航できる時代ではありませんでした。
1972年に田中角栄首相が訪中して国交が回復され、1974年に日中航空協定が締結されて直行便が飛ぶようにはなっていましたが、中国側から渡航許可を得て、中国の国営旅行社に手配を依頼しなければビザはおりませんでした。そんな中国に渡航する滅多にない機会だと思っていたので、僕は約2週間の団体旅行に参加したのです(蹴球放浪記第94回「“塁”球放浪記」参照)。
現地でどこのホテルに泊まるのかも、事前には教えてもらえませんでした。いや、上海に着いてから現地の国営旅行社の係員に尋ねても、次に向かう北京でどこのホテルが手配されているか分からないのです。
昔の中国では、横のつながりがまったくありませんでした。
たとえば、大連から瀋陽経由で長春まで行く列車に、途中の瀋陽駅から乗車しようとしても、瀋陽駅では大連での予約状況が分からないので、予約ができなかったのです。
■大きな権力を持つ「大型バス運転手」
1979年9月というと、中華人民共和国建国の父、毛沢東主席が亡くなってから、まだ3年しかたっていませんでした。1960年代後半は、実権を失っていた毛沢東主席が権力を取り戻すために文化大革命を発動しました。文化大革命の間には数千万人が死亡し、共産党や政府の指導者の多くが虐殺されたり、追放されたりしました。毛主席が亡くなってから毛沢東派は駆逐され、1979年になると、ようやく混乱が収まった頃だったのです。
文化大革命の間は経済も大混乱に陥り、中国はとても貧しい時代でした。人民は皆、自転車に乗っており、自動車は超貴重品。国家の財産である大型バスの運転を任されている運転手は、大きな権力を持っているらしく、国営旅行社のガイドの言うことも聞きません。
外国人旅行者などほとんどおらず、日本人も物珍しい時代でした。
そんな中国で、団体から離れて、単独で現地のバスに乗って盧溝橋まで行くというのは、かなりの冒険でした。「せっかく海外に行ったのだから、そういう冒険をしたい」と思ったのは、やはり「放浪家」として血が騒いだからでしょう。