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シリーズ「もう一度投げたかった」──荒木大輔(後編)

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 投手の宿命ともいうべき、肩やひじの故障によって選手生命を絶たれたり、本来の力を失ったりした元エースたち──。

 ケガに至る過程やリハビリの苦闘を語ってもらう本シリーズのなかで、荒木大輔のケースはやや異色だ。1988年に行なったトミー・ジョン手術のあと、さらに2度の手術を経て4年もの歳月をかけながらも一軍のマウンドに復帰。それも、ただ登板したというだけではなく、レギュラーシーズンで勝ち星を重ね、日本シリーズでも好投してヤクルトスワローズの日本一に大きく貢献したのだ。

 その意味では、「もう一度投げたかった」ではなく、「もう一度投げられた」というべきかもしれない。長い手術とリハビリの日々を経験したことで、投手としてどのような変化があったのだろうか。



1993年の日本シリーズ第1戦、西武から勝利を挙げた荒木大輔

──1992年6月14日、荒木さんはイースタンリーグの大洋戦で1988年以来の実戦登板を果たします。

「二軍戦で復帰登板したときには、村田兆治さんにも来ていただきました。そのときは、ピッチャーとしてマウンドに上がれることがうれしかったですね。二軍の試合ではありましたが、『ここが自分のいる場所だ』と思いました。最高の舞台でした」

──そして荒木さんが一軍のマウンドに戻ってきたのが1992年9月24日、神宮球場での広島戦です。1541日ぶりの復活劇に勢いを得て、この年のスワローズは14年ぶりのリーグ制覇を果たしました。故障する前と後とでは荒木さんに変化はありましたか。

「以前は『勝ちたい』『いいピッチングをしたい』という思いが強かったのですが、復帰してからは投げること自体が楽しい。少しも怖さを感じなくなりました。それまではピンチになったときに『どうやって切り抜けよう』『打たれたらどうしよう』と考えていたのに、すごいバッターと対戦するのが楽しくなりましたね。『こんな場面で落合博満さんと対戦できるのか』『オマリーを抑えることができたらすごいな』……と」

──純粋に野球をすることが楽しくなったのでしょうか。

「そうですね。野球を始めたばかりの頃に戻ったようでした。高校時代までは『楽しい』という気持ちが少しありましたが、プロになってからはそんな余裕はなくなっていました。でも、復帰してから引退するまでは、『打たれたらどうしよう』『負けたらどうなるか』などとは一度も考えませんでしたから」

──復帰したシーズンにヤクルトはセ・リーグ優勝、翌年はセ・リーグ連覇を果たし、日本シリーズでは前年敗れた西武ライオンズを下して日本一になりました。

「リハビリをしているときには、自分のいるチームが優勝することなんて、まったく想像もしていませんでした。それまでのチームの状況を考えたら、とても、とても。『シーズンではできないから、ここでやろう』と言って、焼肉屋さんでビールかけをするようなチームでしたから(笑)」

──1990年に野村克也さんが監督に就任してから、チームは変わりましたか。

「私が手術する前とは全然違うチームになっていました。ロッカールームではいつもの和やかなスワローズなんですよ。ガヤガヤうるさくて、ゲームをする選手も、将棋を打つ選手も、バカ騒ぎしているヤツもいる。みんな個性があって、まとまりのないチームなのに、ユニフォームに着替えると、ピーンと糸が張ったみたいな緊張感が生まれる。オンとオフがはっきりしたチームでしたね。1992年に一軍に戻ったときに、そう感じました」

──古くからチームにいる荒木さんにとっては不思議な空間ですね。

「勝手が違いました。もちろん、知っている顔がたくさんいて、ロッカーの雰囲気はそれまでと一緒。なのに、ユニフォームを着た瞬間に雰囲気が一変しましたから。そういうのはBクラスの常連だった時代にはなかったこと。野村監督になって、スワローズは本当に変わりましたね」

──荒木さんは1993年、17試合に先発登板して8勝4敗、防御率3・92という成績でチームの連覇を支えました。スワローズは勢いに乗り、西武ライオンズを下して日本一に登りつめました。荒木さんにとって、初めて経験する日本一です。

「1992年に対戦したときのライオンズには勝てる気がしませんでした。当時はセ・リーグとパ・リーグの交流戦もなくて、相手の情報が少なかった。いつも日本シリーズで勝っているライオンズのイメージしかありませんでした。その年は最後まで追い詰めたけど勝てなかったのですが、翌年は相手を見下ろしていました。1993年はまったく負ける気がしなかったですね」

──荒木さんは日本シリーズの初戦に先発して、6回を投げ4失点を許したものの、見事に勝利投手になりました。

「1993年は『勝てるだろうな』と思っていたし、マウンドに上がるのが楽しかった。ほかにいいピッチャーがいるのに、自分に初戦を任せてもらえることの喜びもありました。野村監督にはリーグ優勝が決まったあとに初戦の登板を告げられましたが、『負けたら監督のせいだ』と思いました。だって、ほかにいいピッチャーがいるのに私を起用するわけですから。それは、エースでもないピッチャーを投げさせる監督の責任ですよね(笑)」

──野村監督のもとでスワローズは、1995年、1997年にもリーグ優勝を果たし、いずれも日本一にもなるなどセ・リーグの中心にいました。しかし、荒木さんの成績は下降し、1994年はわずか1勝だけ。1996年には早実の先輩でもある大矢明彦さんが監督を務める横浜ベイスターズに移籍することになりました。

「その頃、どこかを痛めたということはありません。年齢的には30歳を少し過ぎたところで、まだ肉体的にも問題はありませんでした。でも、思い通りのピッチングができなくなっていました。若い投手の台頭もあって、一軍半くらいのポジションに追いやられてしまった。『同じ力量なら若い選手を使おう』と思ったのかもしれません。チャンスがなくなってきたので、球団にお願いして移籍させてもらうことになりました」

──新しいチームで復活を目指した荒木さんですが、横浜では1勝も挙げることができないまま(0勝2敗)、ユニフォームを脱ぐことになりますね。

「ちょうど、ベイスターズも若いピッチャーが伸びているところでした。私はスピードで勝負していたピッチャーではありません。ボールのキレや変化球のコントロールも落ちていないと本人は思っていました。でも、評価をするのは他人です。『まだやれる』という思いもありましたが、引退を決意しました」

──荒木さんの通算成績は、180試合登板(先発116試合)、39勝49敗2セーブ、防御率は4・80でした。

「プロ野球選手として、ひと通りのことをやらせてもらいました。オールスターゲームでも投げたし、開幕投手も、日本シリーズの初戦の先発登板も任された。リーグ優勝もできたし、日本一にもなれました。プロに入ったとき、私はそんなことができる選手になれるとは思っていませんでした。プロ野球選手になることから逃げていたくらいですから。そういう意味では、自分なりに頑張れたんじゃないかな。

 ただひとつだけ、もう少しリハビリの期間が短ければよかったのに、とは思います。手術をして投げられない時期があったことで、いろいろなことを知ることができたのは私にとって本当によかった。でも、もう少し期間を短くすることができれていれば……登板数も増えていただろうし、勝ち星も増やせたかもしれません」

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