赤星憲広が語る藤川球児(前編) 岡田彰布監督に代わり、阪神の新監督に就任した藤川球児氏。現役時代は「火の玉ストレート」を武器に日米通算245セーブを記録するなど、絶対的守護神として活躍した藤川監督はどのようなチームをつくっていくのか。阪神O…

赤星憲広が語る藤川球児(前編)

 岡田彰布監督に代わり、阪神の新監督に就任した藤川球児氏。現役時代は「火の玉ストレート」を武器に日米通算245セーブを記録するなど、絶対的守護神として活躍した藤川監督はどのようなチームをつくっていくのか。阪神OBであり、藤川監督とともにプレーした経験のある赤星憲広氏に聞いた。


今季から阪神の指揮を執る藤川球児監督

 photo by Sankei Visual

【リリーバーとして覚醒】

── 藤川監督の現役時代、先発ではなかなか結果を残せませんでしたが、リリーバーとして日米通算245セーブ、164ホールドを挙げました。

赤星 僕がプロ入りした2001年の頃は先発投手として成績を残せず、苦しんでいるところはありました。まだ体の線が細く、スタミナ面での不安もあったのかもしれません。ただ、すごいストレートを投げていたので、僕は漠然とですがショートイニングのほうがいいかも......と思っていました。

── 現役時代の藤川監督について、一番思い出深いシーンは何ですか。

赤星 2003年の開幕まもない4月11日の東京ドームでの巨人戦です。9回裏、阪神は7対1の大量リードから2失点し、さらに二死一、二塁のツーナッシングから球児が緊急登板しました。仁志(敏久)さんにタイムリーを打たれ3点差。そして代打の後藤(孝志)さんに、またもツーナッシングからフォークのすっぽ抜けをライトスタンドに運ばれ、まさかの同点3ラン。試合は延長12回に引き分けに終わったのですが、今でもあの試合は忘れないです。

── なぜ一番の思い出のシーンとして残っているのですか。

赤星 打たれた瞬間、球児はマウンドにしゃがみ込みました。星野仙一監督はマスコミに対して「ああいう場面で出るのはつらいぞ。よう頑張ったよ」と、球児を責めませんでした。一方で、我々に対してはミーティングで「球児がどうこうじゃない。ワシの継投ミス、采配ミスや」と謝ったのです。

 その年、球児の登板機会はほとんどありませんでしたが、翌年、岡田彰布監督のもとリリーバーに完全転向し、頭角を現すようになりました。あの巨人戦の登板が、彼のプロ野球人生におけるひとつのターニングポイントになったことは間違いないと思います。

── 岡田監督がリリーバーに適性があると見て、完全転向させたのですね。

赤星 そうです。2005年は80試合に登板して46ホールド。ポテンシャルが一気に開花しジェフ・ウィリアムス、球児、久保田智之のいわゆる"JFK"という勝利の方程式が確立したのです。

【球児が打たれたのだから仕方ない】

── その2005年の4月、大差の試合でストレートを投げなかった藤川投手を清原和博選手(巨人)が批判した事件もありました。

赤星 そのわずか2カ月後に球児は真っ向勝負を挑み、清原さんを抑えました。球児のストレートに清原さんは「火の玉や」と絶賛しました。すばらしい球でした。

── わずか2カ月で心理的にも急成長を遂げ、シーズン46ホールドまで積み重ねたのですね。

赤星 本人の努力の賜物であるのは間違いありませんが、鳴り物入りで入団しながら、プロ入り5年間は鳴かず飛ばずの状態でしたから、自分でも「このままだとヤバい」と、戦力外の危機を感じていたのではないでしょうか。近年は"育成選手"扱いにするところもありますが、当時は5年間も待ってくれるチームは少なかったですから。のちになってわかったのですが、実際、球児はトレード要員だったそうです。そう言えば、思い出深い試合がもうひとつあります。

── 教えてください。

赤星 2008年10月20日のクライマックスシリーズ第1ステージの中日との第3戦。0対0の9回表二死三塁。マウンドには球児、打席にタイロン・ウッズ。カウント3ボールからフルカウントになりました。その場面、四球で歩かせるという選択肢もありましたし、フォークを投げれば三振に打ちとれる確率は高かったと思います。ただ、球児はサインに首を振っていたので、ストレートにこだわっていたのでしょう。

── 「際どいところに投げて打ち損じを狙うか、歩かせてもいい」と、当時の解説者は連呼していました。

赤星 球児の持ち球はストレートとフォークの2つです。ただ、意地になってストレートを投げ続ける投手ではありません。僕たちは捕手のサインで守備位置を変える"ポジショニング"を取りますが、配球には投手と捕手、そして対戦している打者にしかわからない感覚的なものがあると思います。

 結局、フルカウントからのストレートをウッズはものの見事にレフトに決勝2ラン。打った瞬間ホームランとわかる超特大アーチ。センターの僕が一歩も動かなかったのは初めてでした。結果、レギュラーシーズン2位の阪神は、CS第2ステージに進めませんでした。

── 2008年はマジックを点灯させながら、北京五輪後に大失速。リーグ優勝を逃し、日本シリーズにも進出できず、岡田監督は辞任しました。

赤星 岡田監督は「最後におまえで終われてよかった」と、球児に伝えたそうです。あのふたりにしかわからない感情があったのだと思います。僕は悔しかったというより、いろんな思いが交錯していました。ただやはり、「球児が打たれたのだから仕方ない」と思っていました。

【岡田野球の継承】

── 藤川監督は「岡田監督の野球の継承」を公言し、「現在は岡田監督がつくった成熟のチーム。3点ほど取って、きっちり終わる安定の野球」とも言っています。具体的にどういう野球だと思いますか。

赤星 藤川監督は投手出身ですから、やはり投手を中心とした「守り勝つ野球」ということです。

── 岡田監督は「四球は安打と同じ」と意識改革もしました。

赤星 本塁打を打ちまくって勝つチームではないですから、四球で出塁して、少ないチャンスをモノにする。昨年は地の利を生かして、本拠地で43勝27敗2分という好成績を挙げました。今年は球団創設90周年とメモリアルイヤーです。徐々に"藤川流"の野球が見られると思います。期待は膨らむばかりですね。

つづく>>

赤星憲広(あかほし・のりひろ)/1976年4月10日、愛知県出身。大府高校から亜細亜大、JR東日本に進み、2000年のドラフトで阪神から4位指名を受け入団。1年目の01年に盗塁王と新人王を獲得、以後05年まで5年連続盗塁王を獲得し、プロ通算381盗塁は球団最多記録。07年には通算1000本安打達成。09年9月、試合中のダイビングキャッチで脊髄を損傷し、同年12月に現役引退。現在は野球解説者、スポーツコメンテーターとして活動している