川尻哲郎氏 社会人3年目の急成長、補強選手で都市対抗出場 阪神で活躍した川尻哲郎氏は1993年、社会人野球・日産自動車での3年目のシーズンから急成長した。大きなきっかけはオーバースローからサイドスローに投球フォームを変えたことで、その年の都…
川尻哲郎氏 社会人3年目の急成長、補強選手で都市対抗出場
阪神で活躍した川尻哲郎氏は1993年、社会人野球・日産自動車での3年目のシーズンから急成長した。大きなきっかけはオーバースローからサイドスローに投球フォームを変えたことで、その年の都市対抗予選に登板して好投。いすゞ自動車の補強選手として都市対抗に出場し、1回戦、2回戦で勝利投手になるなど飛躍したが、それを振り返る上で、強く印象に残っているのはタバコの“思い出”だという。
社会人3年目に川尻氏は気持ちも新たに再スタートを切った。日産自動車・村上忠則監督の指令により、エース左腕の久保恭久投手の下で勉強しながら調整に励んだ。ちょっと張り切りすぎたのか、ぎっくり腰になったが、それでもめげることもなかった。「腰を壊した時に(悪い流れを変えるために)『何かやめないと』って言われて『じゃあタバコをやめます』と言って禁煙もしたんです」。その後、オーバースローからサイドスローに転向。そこからめきめきと頭角を現した。
「サイドにしてから、すごい感覚が合ったんですよ。球速も140キロを超えるようになったし、都市対抗の予選にもベンチに入れてもらって、中継ぎだったけど、いいピッチングができた。それから最後でも投げて、すごい完璧に抑えたんです」。フォームを変えてから努力を重ねて、短期間で自分のものにした。戦力として使われるようになったわけだ。
それだけではない。「その年、日産は予選で負けたんですけど、僕のピッチングをいすゞ(自動車)が見てくれて、都市対抗の補強選手としてとってくれたんです」。一気にアピールにも成功して、過去2年、日産自動車ではベンチ入りさえできなかった都市対抗に出場することになった。サイドにして以来、次から次へと階段を駆け上がっていった。
都市対抗2試合連続で勝利投手、日本選手権準Vにも大きく貢献
しかも都市対抗でも大活躍だ。いすゞ自動車は1回戦、大阪ガスに10-9、2回戦の新日鉄広畑戦には6-1で勝ったが、いずれの試合も川尻氏が勝利投手になった。いすゞ自動車は準々決勝のNTT北陸戦にも延長10回6-4でサヨナラ勝ち、準決勝は日本通運に延長11回7-8で惜しくもサヨナラ負けとなったが、川尻氏は投手の大会優秀選手にも選出された。「僕が抑えて逆転したとか、そんな感じだったと思います」。
躍進はさらに続く。10月の社会人野球日本選手権では日産自動車の準優勝に大貢献した。準々決勝の大昭和製紙北海道戦で勝利投手になるなど、力を発揮して、敢闘賞を受賞。「リリーフで抑え的に使ってもらいました。後半勝っていれば3回でも4回でも行きました。(後に)ヤクルトに入る北川(哲也投手)が先発で、その後に僕が行くって感じでしたね」。前年までの社会人2年間の低迷がうそのような働き続き。サイドスロー効果はまさに絶大だった。
そんな3年目を思い起こせば、忘れられないのが、すべてのきっかけになった最初の都市対抗予選での登板だという。「初めて、そんな試合でベンチに入って緊張していたんだと思います。腰を痛めてからずっと禁煙していたんですけど、ベンチのところにタバコがあって思わず『一服していいですか』って言ってしまって……。でも吸った途端にすごい力が抜けたんですよ。緊張していたのがふーっと抜けて、そこから僕は抑え出したんですよ」。
そんな形で最初の登板を乗り切り、以来、禁煙は解除され、サイドスローでの進化は本格化していった。イニング間の一服はルーティンになり、プロでも続いたという。「今は阪神も全面禁煙になっていますけどね」。現在は愛煙家にとって、厳しい世界になったし、そんな時代の流れも理解しているが、今もタバコは欠かせない。飛躍に導いたあの一服シーンは、一生の思い出にもなっているようだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)