元阪神・川尻氏、エースに“弟子入り”して社会人の自覚芽生える 阪神などでサイドスロー右腕として活躍した川尻哲郎氏は社会人野球・日産自動車3年目の1993年途中までオーバースローだった。それを日産自動車・村上忠則監督らから提案されて投球フォー…
元阪神・川尻氏、エースに“弟子入り”して社会人の自覚芽生える
阪神などでサイドスロー右腕として活躍した川尻哲郎氏は社会人野球・日産自動車3年目の1993年途中までオーバースローだった。それを日産自動車・村上忠則監督らから提案されて投球フォームを変更したが、当初は「サイドには邪道なイメージがあった」と嫌で嫌で、サイド転向を渋っていた。従うことになったのは、オーバースロー継続をかけた“大一番”で見事に打たれたからだったという。
1991年に日産自動車入りした川尻氏は最初の2年間、ほとんど活躍できず、村上監督から「引退するか」と打診された。それを泣きながら「もう1年続けさせてください」と懇願。エース左腕・久保恭久投手の下で勉強することを条件に現役続行となった。それからは先輩の教えを受け、よく相談して、社会人としての自覚を含めて、物事に取り組む姿勢から変わっていったという。
「朝5時すぎに起きて飯食って、6時くらいには電車に乗って横浜の会社に行っていたんですけど、前は寝坊したり、疲れて乗り過ごしちゃったりしては『今日は休みます』とかいうのがあったわけですよ。だけど、社会人としてそれでは駄目。真面目に会社も行くし、練習にも行くというふうになりました。当たり前のことなんですけどね。練習も30分前には行ってグラウンドを走って、それから合流するようにしたり、何か変えないといけないと思ってやり始めたんです」
川尻氏の変化を周りも感じ取った。「だんだんみんなに認められ始めたんです。『川尻って適当なヤツだったけど、あいつ、ちょっと変わったな』みたいな雰囲気になってきて、3年目の大会で先発させてもらったりね」。変わったことでチャンスも得たわけだ。「ただ、その時は練習しすぎたのか、ストレスもいっぱいあったのかわからないけど、直前にギックリ腰になったんですよ。でも投げたいので投げられますと言ったんです。見事にKOされましたけどね」。
いすゞ自動車との練習試合「上から投げて、打たれたら横にしろ」
これにはガクッとなったそうだが、もうただでは転ばなかった。「久保さんとも話して、腰を壊したことで腹筋、背筋をもう1回鍛えようということになって、それを死ぬほどやりました。腹筋も背筋もゆっくり上げて、ゆっくり下ろす。そうすると腰が痛くない。その代わりすっごくきついんですけどね。でもそれをやるようになって、体幹がすごく強くなったんです。それ以来、プロでも腰は壊さなかったですしね」。
そんな時にサイドスローへの転向話が浮上した。「投内連係をやっていたときに、たまに臨時コーチで来られていた方から『お前、横(から投げる時)の方がスムーズだな』って話になったんです。それから監督とかからも『右でも絶対1人、2人抑えるピッチャーが必要だから、ベンチに入りたければ、横にしろ』って言われて……」。ずっとオーバースローで勝負してきた川尻氏は当初、嫌がった。「サイドなんて邪道、ちょっとそんなイメージがあったんですよ」。
そこで村上監督から“大一番”を提案された。「ちょうどいすゞ(自動車)との練習試合があったんですけど『じゃあ川尻な、上から投げて、この試合をお前に任せるから、打たれたら横にしろ』ってね。『わかりました』と言って、投げたんですけど13点くらい取られたんですよ」。もう従うしかない。これでサイドスローへの転向が決まったという。「その日から横で投げ出したかな。そしたらね、ピタッとはまったんですよね」と川尻氏は当時を思い出しながら話した。
「放すポイントが安定してカーブもすごい曲がるし、腕もパチンと振れだしたんですよね」。1993年の都市対抗にはいすゞ自動車の補強選手として出場した。オーバースローをやめるきっかけになった相手に、サイドスロー右腕として認められたのだから、これも何かの縁だろうか。ここから川尻氏はプロ入りの道までたぐり寄せることになる。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)