PL学園OBの宮本慎也氏「また野球部ができることを願っています」 母校へのもどかしさが伝わってきた。2017年限りで高野連を脱退し、休部状態が続くPL学園硬式野球部の卒部生たちによる懇親会が12日、大阪市内で開かれた。出席した元ヤクルトの宮…
PL学園OBの宮本慎也氏「また野球部ができることを願っています」
母校へのもどかしさが伝わってきた。2017年限りで高野連を脱退し、休部状態が続くPL学園硬式野球部の卒部生たちによる懇親会が12日、大阪市内で開かれた。出席した元ヤクルトの宮本慎也氏は「また野球部ができることをもちろんみんな願っています。僕だけじゃなくて、今日来られなかった方もそう願っていると思う」と、1期生から最後の卒部生である62期生までの心情を代弁した。
同部は、当時高校生として在学中で、のちに監督やスカウトとして活躍する井元俊秀氏が声をあげて1956年に創部された。創部7年目の1962年に井元氏が指揮官として甲子園初出場へ導くと、山本泰監督体制だった1978年夏に初めて全国の頂点に立った。1980年代には桑田真澄氏と清原和博氏による「KKコンビ」ら時代の寵児たちを擁して黄金期を築き、活動を休止するまでに春3度、夏4度の甲子園優勝を成し遂げている。
宮本氏も高校2年生だった1987年夏に、負傷した強打者・深瀬猛氏に代わって準決勝と決勝に出場し、史上4校目の春夏連覇に貢献した。同校で暮らした日々を懐かしんだ懇親会のあと、宮本氏は「PL学園って良くも悪くもいろいろ言われるんですけども……。なんて言うんですかね……。僕にとってはいい野球部だった」と、言葉を選びながら本音を絞り出した。
昭和において全国の球児が憧れる高校の1つだった。一方で、同校の厳格な上下関係・ルールが問題視され、時代にそぐわなくなり、2000年以降に不祥事が幾度も表面化。そして2013年の上級生による下級生への部内暴力が引き金となり6か月の対外試合禁止、特待生の受け入れ停止、新入部員募集停止と進み、高野連脱退に至ってしまった。
「何事も時代に合わさないといけない」
宮本氏は「批判されている方の気持ちも分かっているつもりです」と語る。一方で、その時代の憧れになった当事者として「(PL学園硬式野球部は)結果も出ていますし、そこ(当時の部活動のあり方)は別に僕は恥じることないと思ってるんで」とも述べた。
ただ、「やっぱりね、何事も時代に合わさないといけないと思います。アマチュア、プロ関係なく指導者の立場になっているOBがほとんどで、みんなそれは分かっていると思います」と力を込めた。自ら少年時代を過ごし、誇りに思っている昭和風のしきたりを押し付けるのではなく、新しい時代で求められる指導をしないといけないと示した。
ヤクルト一筋で通算2133安打を放ち、ゴールデングラブ賞に10度輝いた宮本氏は昨年、母校のユニホームを着る機会があった。マスターズ甲子園地方予選に1試合出場。「体形が変わってるから、なんかもう一つでした」と苦笑いを浮かべる。
そして、「PL学園に否定的な方もいっぱいいらっしゃいますけど、僕らはこの学校で野球ができて良かったなっていう風に思っているんです。周りに左右されずに復活の時には一致団結したいですね」と語った。(喜岡桜 / Sakura Kioka)