佐藤は終始、笑顔でインタビューに応えてくれた 19年間に渡る現役生活を退いてから、およそ1か月が経った。 最後のレースと定めた昨年11月の日本トライアスロン選手権では、足の痙攣に見舞われながらも、3位表彰台という有終の美。「やり切った」とい…

 

佐藤は終始、笑顔でインタビューに応えてくれた

 

 19年間に渡る現役生活を退いてから、およそ1か月が経った。

 最後のレースと定めた昨年11月の日本トライアスロン選手権では、足の痙攣に見舞われながらも、3位表彰台という有終の美。「やり切った」という言葉が自然と口に出た。

【関連記事】「危険かつ無責任だ」箱根駅伝での中国人インフルエンサーの“愚行” 母国でも批判の声止まず「日本人の中国への印象を悪くした」

 9歳からトライアスロンを始めた佐藤優香は、高校卒業後の2010年第1回ユースオリンピックで金メダルを獲得し、その後も数々の国際大会で好成績を残した。14年には日本トライアスロン選手権で初優勝を飾り、さらに初出場となった16年のリオデジャネイロオリンピックでは日本人最高となる15位と躍進する。しかし、18年頃から体調不良を感じると、翌19年には副腎機能障害が発覚。それから常に自身の体調と戦いながら競技に向き合った。

 トライアスロンを辞めようと思った時もある。それでも続けられたのは、周囲の人たちに支えられている実感があったからだ。

「1人じゃなかった」

 佐藤は自身のトライアスロン人生を振り返って、そう語る。”主役”になるはずだった母国開催の東京五輪に出場できなかった悔しさは心に残っているが、それでも、家族やスタッフ、そして応援してくれるファンのおかげで「やり切った」競技人生を送れた。その想いは現役を引退した今、さらに強いものになっている。

   ◆    ◆    ◆

――現役生活、お疲れ様でした。引退を発表されて1か月が経ちましたが、心境の変化はありましたか?(編集部・注 インタビューは12月下旬に実施)

 最後のレースになった日本選手権から1か月が経って、本当にいろんな気持ちが込み上げてきました。選手だった自分と指導者の道を歩み始めた自分がいて、いろんな気持ちが交錯しているというか。これまで選手として19年間もやってきたんだ、という不思議な感覚です。毎日練習するのが日常だったので、なくなって穴が開いたというか、練習がないとこういう生活なんだなと感じています。

――引退したスポーツ選手にお話を聞くと、「もう練習しなくていいのが嬉しい」という言葉をよく聞きます。

 そうですね(笑)。ただ、ハードな練習はしませんが、体質的に太りやすいので、体重維持のために運動はしています。これまで抱えていた体調の変化が一切なくなったから、それはすごく嬉しい。やっぱり練習の負荷で、どうしても体調の維持が難しかったので。

――日本選手権では「やりきった」とおっしゃっていましたね。

 日本選手権は優勝するための練習をこなせたので勝負する自信もついていたのですが、足の痙攣が起きてしまって……。ラン勝負になった時に一度5位まで落としてしまい、「また今回も厳しくなっちゃうのかな」という気持ちが頭に浮かんでしまいました。その後もつりそうな感覚がずっと残ってしまい、つってしまう恐怖と追い上げたい気持ちでコントロールが難しかったです。でも、最後だから自分の力を出し切りたい、という気持ちがこみ上げて、とにかく前を追って走っていたら前の選手をかわして3位で表彰台にたてました。日本選手権は自分の力というよりも、観客の皆さんの温かい力、不思議な力をいただいて3位に導いていただいた感覚があるので、特別な舞台だったと思います。あそこで4位だったら、今も心の中でモヤモヤしてると思うので、本当にいい形で終われました。

――競技生活を振り返って、もっとも思い出深い大会は?

 東京オリンピック前の最終選考レースですね。イギリスのリーズで行われたんですが、バイクの後半に激しい脱力感に襲われて…突然身体に力が入らなくなって自らオリンピックのチャンスを逃してしまった。あの悔しい気持ちは今でも忘れられません。脱力せずに戦えていたら出場権を獲得できていたかもしれないと思うと、あの時に戻って、もう一度レースしたいという気持ちになります。でも、あの時は体調の面(副腎機能障害など)もあって、脱力はどうしようもできなかったので、受け止めています。

 

今後は指導者としてトライアスロンを支えていく覚悟だ(C)Getty Images

 

――五輪はやはり特別な大会でしたか。

 特別でした。東京オリンピックが終わった2021年には燃え尽き症候群のような状態になりました。実際、東京オリンピックで引退しようと思っていたんです。ただ、周りから「パリまでできる」と声をかけてもらって、自分ではやり切ったと思っていたのに、どうしてそんなこと言うのだろうと、当時はその言葉が苦しくて、どうしようもない気持ちになっていました。

――気持ちを奮い立たせるのは大変だったのでは?

 飯島(健二郎)監督にも「優香はまだできる。パリまで頑張ってみないか?」と言われたので、まず3か月の休養を取りました。そこからトレーニングを再開し、5月の横浜での世界大会に出場したんです。その時に周りの方々からの応援や温かい言葉が、自分の心にすごく沁みました。「また頑張ってよかった」と改めて思えました。皆さんの温かい気持ちに触れて、応援の力はすごいと改めて感じました。

――そうした中で、引退を決めた理由は?

 リオ、東京、パリとオリンピックに挑戦させていただいて、やりきった自分がいました。パリオリンピックのシーズン後に改めて考えようという気持ちで過ごしていた時に、次のステージを指導者として挑戦していく気持ちが芽生えてきて、日本選手権で最後にしようと決めました。

――指導者を目指す気持ちが芽生えたキッカケは?

 数年前の合宿の帰り道に、監督から「僕もずっと監督でいられるわけでもないし、次の後継者をどうしよう」という言葉をいただいたことがあったんです。その時は他人事のように聞いてたんですが、パリオリンピックのシーズンが終わって悩んでいた時に、監督の言葉を思い出して、自分が後継者になれたら、という気持ちが込み上げてきました。それで監督に「次は指導者としてチームを守っていけるように私が継ぎたいです」と宣言しました。

 パリ五輪が終わってからは、3か月くらい悩んでいたんです。その時に母には「やりたいことが何もないなら、人の力になれるものを考えなさい」と言われました。やりたいことが一つも思い浮かばなかったので悶々としていましたが、指導者の道を考えて監督に伝えた時にはすっきりしました。

――サポートされる立場から、今度は指導者としてサポートする立場に変わっていきます。どういったイメージを持たれていますか。

 自分が選手をやってきたからこそ伝えられることもあると思うし、選手の悩みを少しでも理解できるところがあると思うので、選手と近い距離で指導できるんじゃないかと思っています。監督は私に対して常にそういった形でサポートしてくださって、私が試合で結果が出ずに落ち込んだ時にも寄り添って「俺がちゃんとついてるから、怖がらずに次も一緒に戦っていこう」という言葉をいただいていました。私も後輩選手たちとそういった関係を築いていきたいと思っています。

――19年間の競技生活の中で得られた一番の財産は何ですか?

 多くの方に支えていただいて19年間歩むことができたので、その「人の力」ですね。それがあったからこそ、トライアスロンに向き合えたという思いがあります。1人じゃなかった、そういう気持ちです。だから、今後は指導者という形ではありますが、トライアスロンに貢献していきたい。もっといろんな形で表に出て、トライアスロンを発信して盛り上げていける1人でもありたいと思っています。

[取材/構成:ココカラネクスト編集部]

 

【関連記事】「無礼だ」セーヌ川汚染問題をパリ五輪トライアスロン出場のノルウェー選手が回想 運営の“強行開催”を猛批判!「あんな場所で」

【関連記事】カナダ選手は10回も嘔吐…強行されたトライアスロンに海外紙は疑問視「過酷さは通常の非ではなかった」【パリ五輪】

【関連記事】水質以上に問題だった“流れ” セーヌ川の状態にトライアスロン参加選手が懸念「100回くらい溺れそうになった」【パリ五輪】