1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から間もなく30年を迎える。節目の日を前に、未曽有の自然災害を経験した各界著名人が当時を振り返る企画「あの日、あの時」がスタート。今回は阪神・藤本敦士1軍総合コーチ(47)。当時は被害の大きか…

 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災から間もなく30年を迎える。節目の日を前に、未曽有の自然災害を経験した各界著名人が当時を振り返る企画「あの日、あの時」がスタート。今回は阪神・藤本敦士1軍総合コーチ(47)。当時は被害の大きかった神戸市長田区にある育英高校の主将としてセンバツにも出場した。劇的な1年を振り返りながら、震災に対する思いを明かした。

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 感じたことのない揺れで目が覚めた。実家の中はぐちゃぐちゃ。窓を開けようとすると、勝手に鍵が開いていた。藤本敦士1軍総合コーチ(47)は当時17歳。「ただごとじゃなかった。いつも見ている風景が全然違う風景に変わっていたのは、すごいショックだったのを覚えている」。神戸市長田区にあった、母校の育英高校周辺は被害の大きかった場所の一つだった。

 明石市の実家は居酒屋。幸いにも食料はあった。近所の人たちを集めて助け合いの日々。生活に苦しむ一方で、野球に対しては二つの葛藤があった。育英高校の主将。「センバツが開催できるのかっていうのが一番だった」。当然、甲子園球場も被害を受けた。幼少期からの甲子園出場という夢。「諦めきれない自分もいたし、こんな状況で野球をやっていいのかなという思いもあった」と悩まされていた。

 センバツの開催が決定しても、練習を満足にできる状況ではない。西宮の同級生を実家にホームステイさせて自主トレを行ったりもした。そんな時でも頭の片隅には不安がよぎる。「こんな事態で自主トレして、キャッチボールをしていても後ろめたいというか。すごい変な感じでしたね」。全体練習も練習試合もできないまま、センバツを迎えることになった。

 主将として、ミーティングでは部員に言葉を送った。「やるからには恥じないようにやろう」。でも、常に不安との隣り合わせだった。「ガッツポーズをしていいのか、笑顔でプレーしていいのか」。そんな思いを変えてくれたのは1回戦を勝利した後だった。

 宿舎でテレビをつけると、育英高校の体育館が映し出された。そこには被災をし、避難している人たちが涙を流して喜んでくれている姿があった。「やっていて間違いじゃなかったと」。救われた瞬間だった。

 「全員が認めてくれるわけじゃないですけど、何人かでもこういうふうに喜んでくれている人がいる。僕らの姿を見て、勇気づけられるんだと。逆に勇気づけられたのを鮮明に覚えています」

 今年で30年となる。「野球ができるというのが当たり前じゃないというのを感じさせられたのが大震災だった。今、できることをしっかりやろうというのを毎年思いますね」。昨年は能登にも地震が襲った。「ゼロにするんじゃなくて、未来の子たちに受け継いでいかないといけない」。藤本コーチの使命でもある。

 ◆藤本敦士(ふじもと・あつし)1977年10月4日生まれ、47歳。兵庫県出身。現役時代は右投げ左打ちの内野手。育英から亜大(中退)、甲賀総合科学専門学校、デュプロを経て、00年度ドラフト7位で阪神入団。10年にFAでヤクルト移籍。13年現役引退。14年にデイリースポーツ評論家を経て、15年に阪神2軍内野守備走塁コーチに就任。19年から1軍内野守備走塁コーチ、25年から1軍総合コーチ。