鍵谷陽平インタビュー 全6回(4回目)インタビュー#3>>大谷翔平とコンビニに行った時の忘れられないひと言 小学校1年で本格的に野球を始め、北海高では甲子園出場を果たすなど、順風満帆な野球人生を送っていた鍵谷陽平氏。しかし、あこがれの地・甲…

鍵谷陽平インタビュー 全6回(4回目)

インタビュー#3>>大谷翔平とコンビニに行った時の忘れられないひと言

 小学校1年で本格的に野球を始め、北海高では甲子園出場を果たすなど、順風満帆な野球人生を送っていた鍵谷陽平氏。しかし、あこがれの地・甲子園でまさかの出来事が待っていた。それでも高校卒業後に進んだ中央大では、10球団から調査書が届くなどバリバリのドラフト候補に成長し、日本ハムから3位指名を受けプロ入りを果たした。鍵谷氏がプロに入るまでのアマチュア時代を振り返った。


北海高3年夏に甲子園出場を果たすも初戦で東邦に敗れた鍵谷陽平氏

 photo by Kyodo News

【あこがれの投手は斎藤雅樹】

── 鍵谷さんが野球を始めたのはいつからですか?

鍵谷 兄の同級生が近所に5、6人いて、みんなで「あおぞら地域野球」というチームに入ったんです。その時、兄は小学1年か2年で、僕はまだ幼稚園児だったのですが、練習や試合を見に行くようになり、コーチの方にキャッチボールをしてもらったりしていました。小学1年になった時に、そのままの流れでチームに入ったというのがスタートですね。

── 初めからピッチャーを?

鍵谷 最初はちょっとだけ外野をやって、その後はサードとキャッチャーです。ピッチャーを始めたのは、小学5年生くらいからでした。ピッチャーとショートという感じです。

── 子どもの頃、好きなプロ野球選手は誰でしたか?

鍵谷 好きな選手は、ジャイアンツの斎藤雅樹さんでした。20勝としたというものあって、すごいピッチャーのイメージがありました。斎藤さんのように横から投げたりしていました。

── 中学はクラブチームじゃないんですね。

鍵谷 部活でした。当時は近くにシニアのチームが3つくらいあったんですけど、ちょうど小学校の時にヒジを剥離骨折してしまって......。このまま硬式ではできないという判断で、部活でやることにしました。

── 部活ではどんな思い出がありますか?

鍵谷 全体練習の時間が短くて、暗くなる前には家に帰っていました。だから塾に行ったり、勉強のほうで頑張っていましたね。

【監督の話し合いを求め練習をボイコット】

── でも、高校は野球の名門・北海高校に進みます。

鍵谷 中学の野球部は強くなかったですけど、自分自身は少しずつ成長できた感覚はありました。試合で投げればある程度抑えられるし、三振も取れる。でも、自分がどれだけの選手なのかがわからなかった。中学最後の試合は0対1で負けたんですけど、たまたま北海高校のコーチの方が見に来られていて、その時に誘われました。

── それで北海高校に進もうと?

鍵谷 もともと普通に受験をして、函館の高校に進もうと思っていました。ただ、家を出て野球をやることにもあこがれがあって......。本気で野球をやるならそれぐらいやらなきゃいけないという思いもありました。地元に残ったら、野球はほどほどにという生活だろうなと思っていたので、野球を本気でやるんだったら、北海に行って挑戦するのもありだなと思って決めました。

── 当時も監督は平川敦さんですか?

鍵谷 ずっと平川さんです。この前も先生に会いに行って、いろいろな話をさせてもらったんですけど、昔は何を考えているのかわからなかった(笑)。表情をまったく変えないし、喜怒哀楽も出さない。当時は練習をやらせるだけやらせて、答えをくれないからこっちがずっと考えてなきゃダメなんです。「この練習、何のためにやっているんだろう」といった感じで......。今にして思えば、自分で考えて練習することにつながっていますけど、高校生の自分たちには難しかったです。

── 言葉にして言ってもらったほうがラクだった?

鍵谷 言わないから、僕らが意図を考えなきゃいけなかった。だから、衝突したこともありました。2年秋に全道大会で初戦敗退したんです。その時に「ここままじゃ甲子園に行けないです。僕らも思うことあるし、先生もいろいろ考えているんでしょうけど、それがわかりません。甲子園に行きたいから話し合いましょう」って言ったら、「今は話す時期じゃない。それよりも練習だ」と言われて......「だったら、話し合いをしてくれるまで練習には出ません」と、ボイコットしたんです。

── それでどうなったのですか?

鍵谷 2、3日ほど平行線のまま話は進まなかったのですが、当時の部長が間に入ってくれて、話し合う機会をつくってもらいました。それで雪解けした感じで、練習メニューを僕たちだけで考える日があったり、冬の間は屋外で練習できないので遠征に行かせてもらったり、だいぶ変わりました。

【甲子園での苦い経験】

── それからチームは強くなった?

鍵谷 そこから強くなって、春も決勝まで行きました。相手は東海大四高(現・東海大札幌)で、伏見寅威(現・日本ハム)を中心にしたチームで一番のライバルでした。その試合で先生は「オレは夏のためにおまえを投げさせたくない」と直接言ってくれました。前までだったら、僕らに言わないで先生だけで決めていたと思います。でも僕とキャプテン、キャッチャー、副キャプテン兼マネージャーが呼ばれて、「おまえたちはどう思っているのか、考えて言いにきてくれ」と。それで話し合って、「夏に勝つためだったら投げない」と決めて、先生に伝えました。

── 春の大会に優勝するよりも、夏に勝つことが大事ですからね。

鍵谷 結局、春は決勝で負けてしまったんですが、夏は優勝して甲子園に出場することができました。

── 勝った瞬間はどんなことを思いましたか?

鍵谷 甲子園に出ることが目標というか、すべてだったので本当にうれしかったですね。それまでの過程も、自分のなかでは初めてと言っていいくらい頑張ったので......心の底からうれしいと思った最初の出来事でした。

── 甲子園は第90回記念大会でした。北海は初戦で愛知の強豪・東邦と対戦し、鍵谷さんは先頭打者の初球にホームランを打たれるなど、10対15で敗れました。

鍵谷 ものすごく暑かったことは覚えているんです。でも、試合のことはまったく覚えていなくて、記憶から消えています。ほんとに嫌な記憶というか、試合の映像は見ていないですし、DVDももらったんですけど......一度も見ていません。

── あれほど打たれた経験は?

鍵谷 公式戦ではなかったですね。しかも甲子園の舞台であれだけ打たれるとは......ふつうに考えたら、10点取ってくれれば勝てるじゃないですか。それまでの試合は全部投げきったんですけど、あの夏、初めて途中でマウンドを降りました。そういうこともあって、記憶から消したいんです(笑)。

【どこでもいいから早く指名してくれ】

── 高校卒業後、中央大学に進みます。プロ野球選手になるというのがリアルに感じるようになったのはいつ頃ですか。

鍵谷 大学2年の秋です。それまで149キロしか出せなくて、リーグ戦でもほとんど投げていなかったのですが、ちょうど澤村(拓一)さんがジャパンに行って、脇腹をケガしたんです。それで僕にチャンスが回ってきて、リリーフで投げたら152キロが出て。防御率もロッテに行った(東洋大学の)藤岡貴裕さんと争ったんです。それで「プロに行けるかも」と思って、本気で目指すようになりました。ただその時、ヒジを痛めてしまったんです。

 ヒジが痛いなと思いながら投げていたら、徐々に握力がなくなって。結果は靭帯損傷でした。断裂ではなかったので手術はしませんでしたが、ずっと痛くて、その冬は投げませんでした。それからなかなかパフォーマンスは上がらず、大学3年の時はモヤモヤした気持ちで過ごしていましたね。

── 元の感覚というか、しっかり投げられるようになったのは4年生になってからですか?

鍵谷 4年の時は絶好調でした。ツーシーム、フォークという新しい球種を投げるようになり、自分のなかでピッチングのコツというのもつかんだというか。

── スカウトも来たと思いますが、やはり意識しましたか。

鍵谷 そんな余裕はなかったですね。4年生のピッチャーは、僕ひとりになったんです。ひとりはマネージャーになり、残りの選手は就活に行ったりで、ベンチに入れるようなピッチャーがいませんでした。僕は投手キャプテンをしていたので、全員の練習メニューを決めたり、もちろん自分でもやらなければならなかったので忙しかったですね。でも、それが逆によかったのかもしれない。勝ち星はつかなかったけど、投手としての成績はよかったので、プロにつながったのかなと思います。


中央大時代の鍵谷陽平氏

 photo by Sankei Visual

── どこの球団が見に来ているというような噂は、耳に入ってくるものですか。

鍵谷 調査書は10球団から来ました。早くから注目してくれたのがオリックスとソフトバンクですね。それも風の便りで聞きました(笑)。

── ドラフト当日は?

鍵谷 大学にあるホールで監督や部員たちと見ていました。「2位までに指名あるよ」って、これも風の便りで聞いていたので、ウキウキして待っていたんですが......気づいたら2位指名は終わっていました。周りからは「外れ1位もあるよ」と言われて、それを鵜呑みにしてしまいました。世の中、そんな甘くなかったです(笑)。

── 当時のドラフト中継は、2位指名まででしたよね。

鍵谷 2位指名が終わると、いったん中断に入り、そのまま1時間くらい待っていました。その間、みんなも持っているわけですよ。それに一般学生も「何やっているんだろう」ってホールに入ってくるし。監督と一緒に、ずっと同じ姿勢で座っていました(笑)。とにかく、ものすごく長い時間でしたね。「もしかしたら指名ないかも」って考えたり......。「どこでもいいから早く指名してくれ」と思っていたら、ファイターズが3巡目の最初で指名してくれて、ホッとしました。

── それは誰から聞いたのですか?

鍵谷 後ろにいた仲間からです。同級生の誰かが「ハム3位!」って声を上げて、そしたら「うお〜!」ってホール中が盛り上がって。

── 地元の球団からの指名でした。

鍵谷 そこはファイターズのすごいところというか、それまでそんな素振りはまったくなかったんです。だから余計にビックリしました。

── 今のドラフトを見ていると、違う部屋で待機して、指名されたら出てきて受け答えするみたいな感じになっていますね。

鍵谷 いやー、めちゃくちゃうらやましいです(笑)。

つづく>>

鍵谷陽平(かぎや・ようへい)/1990年9月23日、北海道亀田郡七飯町出身。北海高から中央大に進み、2012年ドラフト3位で日本ハムに入団。1年目から38試合に登板するなど、おもにリリーフとして活躍。17年にはシーズン60試合に登板した。19年シーズン途中から巨人に移籍。23年オフに戦力外通告を受けるも、古巣である日本ハムと育成契約を交わす。24年7月に支配下になるも一軍登板の機会がなく、9月に現役引退を発表。25年から日本ハムのチームスタッフとして活動する。妻は女優の青谷優衣