サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような、「超マニアックコラム」。今回は「3人と2人じゃ大違い」。あるルールの変更で、サッカーが世界中で愛されるスポーツになったという。もしかしたら、ペレも、マラドーナも、メッシも、クリロナも、そしてエムバぺも、ヤマルもサッカーをやっていなかった可能性すらある、意外と知らない「サッカーの大革命」にスポットを当てる!
■なぜ、これほど「長命」だったのか
なぜ「ピラミッド・システム」はこれほど長命だったのか。それは攻守のバランスが非常によく取れていたからだ。3人の「ハーフバック」のうち、中央の選手(センターハーフ)は中盤を幅広く動き、5人のフォワードのサポートをするとともに、守備に回ったときにはセンターフォワードをマークするという役割をも担った。「センターハーフにサポートされた5人の攻撃」対「センターハーフが衝立のようになる5人の守備」―。「ピラミッド・システム」は、改善すべきところのない、「完璧なシステム」だったのだ。
さらに言えば、仮に「センターハーフ」の守備が間に合わない場合にも、「3人オフサイド制」により、2人の「フルバック」の巧みなポジショニングで、そう大きなリスクをかけないでも相手の攻撃を無効化することができたことも、このシステムが長生きした要因だった。
たとえば相手が「センターフォワード」にパスを出す直前に、2人の「フルバック」のうち1人が前進する。「オフサイドトラップ」である。それによって、最後のフルバックが目の前にいる状況でも、センターフォワードはオフサイドになってしまう。実際、このシステム下の試合では、オフサイドトラップが多用され、やすやすと守れてしまっていた。
■30万人が押しかけた「伝説の試合」
オフサイドを「2人制」にすべきという議論は、ずいぶん早い時期からなされてきた。サッカーのルール改正は当初「ご本家」のFA(イングランド・サッカー協会)の独占物だったが、1886年にスコットランド、ウェールズ、アイルランドの3協会が加わる形で国際サッカー評議会(IFAB)が結成され、ルール改正はすべてここで扱うことになった。
スコットランド・サッカー協会(SFA)が「2人制オフサイド」の提案をしたのは、そのわずか8年後、1894年のことだった。だがイングランド北西部、湖水地方の風光明媚なウインダミア湖を望む「フェリー・ホテル」でのIFAB年次総会で、この案はあっさりと否決された。
あきらめきれないSFAは、1902年、1913年、1914年と提案を繰り返したが、そのたびに否決された。一貫して反対したのは、FA(イングランド・サッカー協会)だった。第一次大戦終了後も、SFAは1922年、1923年、1924年と執拗に「2人制オフサイド」を提案したが、ここでもFAの反対でつぶされた。
このころ、イングランドのプロサッカーはひとつの隆盛期を迎えていた。第一次世界大戦前には、「フットボールリーグ」は1部20クラブ、2部20クラブの計40クラブで開催されていたが、戦後のサッカー熱のなかでの再開1シーズン目の1919/20シーズンには1、2部とも22クラブとなり、翌1920/21シーズンには3部22クラブが加わった。さらに次の1921/22シーズンには3部が「南北」に別れて計42クラブになり、総計すると86クラブと、急速に発展したのである。
さらに、1923年にはロンドンにウェンブリー・スタジアムが完成。FAカップ決勝やイングランド代表の「ホーム」となった。その最初の試合、1923年FAカップ決勝では、このスタジアムをひと目見ようと30万人もの観衆が押しかけ、ピッチのすぐ外にまで観客を入れて開催するという伝説の試合(ホワイトホース・ファイナル)も生まれて、サッカーは完全に英国最大の娯楽となっていた。
■行われた「2つの改正案」の試験試合
しかし、その一方で、勝負が厳しくなる余り守備的になって得点数が減り、人気の先行きを懸念する声も高くなっていた。「保守的」なことで知られたFAも安閑としているわけにはいかなかった。そこで1925年3月30日月曜日の午後、アーセナルが所有するロンドンのハイベリー・スタジアムを使い、FAはひとつの「試験試合」を行った。この年のIFAB総会に向けてSFAが提案していた2つの「オフサイド改正案」のテストだった。
前半45分間は、両ゴールラインから40ヤード(約36.6メートル)のところ、すなわちセンターサークルの端から7メートルほどゴール寄りのところにタッチラインからタッチラインまで線を引き、そこまではオフサイドはないというルールでのプレー。そして後半45分間は、もうひとつの案、「2人制オフサイド」でプレーさせたのである。
FAはこのテスト結果を詳細に分析し、6月初旬の総会で討議した。オフサイドルールの改正を支持する理事たちは、ゲームの中断が減り、審判のミスが避けられ、見ていて面白いものになると主張した。一方で、攻撃側にあまりに有利になると反対する理事も少なくなかった。さらにレフェリーを代表する理事たちは、改正に強く反対した。それでも、最終的に、FAは「2人制オフサイド」を支持することを決めた。
■革命後、ゴールが「43.9%」増加
この年のIFAB年次総会は、その直後、6月13日土曜日にパリで開催された。サンラザール駅に近い「ロンドル通り22番地」。このときにはすでに国際サッカー連盟(FIFA)もIFABのメンバーとなっており、そのお膝元のパリで年次総会が開催されたのだ。ただ、通り名の「ロンドル」は、もちろんフランス語で「ロンドン」の意味で、サッカーのルールを話し合うにふさわしい場所だった。
会議が始まると、SFAはまず「40ヤード案」を引っ込め、続いて「2人制案」を説明した。そしてFAの後押しもあって、ルールの1語を「3」から「2」に変える改正案は可決されたのである。「革命」の瞬間だった。
効果はてきめんだった。「革命前」の1924/25シーズンのイングランド・リーグ1部では、総試合462試合で生まれたゴール数は1192だった。1試合平均にすると2.58ゴールである。それが「革命後」の1925/26シーズンでは、同じ試合数で1703ゴール(平均3.69)へと跳ね上がったのだ。実に43.9%の増加である。