今オフの藤浪はプエルトリコのウインターリーグに参戦するなどチャンスを求めてもがいている。※写真は24年1月のもの。(C)産経新聞社「『あいつまた休憩して』と思われてるんやろな」。漏らした周囲の目に対する不安 日本では寒さが増してきた12月に…

 

今オフの藤浪はプエルトリコのウインターリーグに参戦するなどチャンスを求めてもがいている。※写真は24年1月のもの。(C)産経新聞社

 

「『あいつまた休憩して』と思われてるんやろな」。漏らした周囲の目に対する不安

 日本では寒さが増してきた12月に入っても藤浪晋太郎は異国のマウンドに上がって懸命に腕を振り続けていた。人生で初めて降り立ったという南米・プエルトリコでのウインターリーグに参加。来季もメジャリーグ、ひいてはアメリカでプレーするためのアピールの場を求めた。

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 藤浪が海を渡ったこの2年間は「苦闘」と表現するのが正しいだろう。

 ポスティングシステムを利用してアスレチックスと契約した2023年は開幕ローテーション入り。熱望していた「先発」としてポジションを掴むと、開幕3戦目にはメジャー初先発で、当時エンゼルスの大谷翔平と対戦。高校時代に甲子園で日本一を争った同世代のマッチアップは、日本からも注目を浴びたが、結果は大谷にタイムリーを浴びるなど3回途中8失点で降板した。以降、4連敗で中継ぎに配置転換され、迎えた7月にはトレードでオリオールズに移籍するなど激動の1年を送った。

 逆襲を期して挑んだメジャー2年目の24年は、メッツに所属してスタートするも、開幕をマイナーで迎え、8月にはメジャー昇格の前提となる40人枠から外れるDFA。メジャー登板のないままシーズンを終えた。阪神時代も通じて初めての故障による長期離脱も経験するなど厳しさは増した。

 筆者が藤浪に最後に会ったのは、昨年12月だ。食事をする機会があり、自然と1年目を振り返る流れになったが「アメリカに行って良かった」という言葉が印象的だった。

「英語が伝わらなかったり、打たれたり、うまくいかないことはたくさんありましたけど、それも“経験”だと思えれば前に進める」という言葉は、強がっているようには聞こえなかった。「純粋に挑戦、野球を楽しみたくて行ったので」と言って米国で見たこと、聞いたこと、得たものを教えてくれ時間はあっという間に過ぎた。

 彼にとって日本時代にはなかった野球へのアプローチだったのかもしれない。高校時代には大阪桐蔭のエースとして甲子園初夏連覇を達成。地元・関西の阪神にドラフト1位で入団したプロ入り後は高卒1年目の13年からローテーション入りすると開幕3戦目に抜てき。ルーキーイヤーから10勝を挙げるなど3年連続2桁勝利を記録して「エース道」を突き進んだ。

 しかし、プロ5年目の17年に3勝に終わると、そこからは不振を抜け出せない厳しい戦いが続いた。つきまとったのは制球難。一時は「リリースの感覚がない」と漏らすなど長いトンネルに迷い込んだ。

 周囲の目を気にするようになったのもその頃だった。

「生活態度とか、『藤浪はあいさつをしない』とか、すごく言われるようになった。仲良い若い選手も実は俺のことそう思ってるんや、とか。センターのところで息が上がって倒れてたら『あいつまた休憩して』と思われてるんやろな、とかそんなことしか考えてなかった」

 同僚に対しても疑心暗鬼になり、払拭すべくマウンドに上がっても結果が出ない。ストレスがきついと多くなるという歯がボロボロになる「凶夢」を見ることも1度や2度ではなくなっていた。

 

メッツでは怪我もあり、満足に投げられない苦悩の日々が続いた。(C)Getty Images

 

賛否も渦巻いたメジャー移籍。それでも藤浪は――

 もどかしい日々を送る一方、胸にずっと消えない夢もあった。それがメジャー挑戦。22年9月に初めて意思を表明した。

 成績が下降していく最中だったため賛否も渦巻いたが、自身でも止められない思いだったように見えた。

「極端な言い方にはなりますけど、来年(23年)、アメリカに行って、肩を壊して引退することになってもいいと思ってるんです。自分が死ぬ時に後悔したくないので」

 より高いレベルで力を試してみたい。アスリートとしての純粋な向上心にストップをかけられなかった。だから今、大きな壁にぶつかっても、打ちのめされることなく、現実を受け止めて前を向く。それは藤浪にとっての「挑戦」に他ならないからであり、ずっと求めていたものだった。

 筆者はメジャー挑戦を表明する前の22年夏、藤浪に一冊の本を薦められた。「DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール」(ビル・パーキンス著、ダイヤモンド社)だった。

 資産をため込むのではなく、自身の良質な経験のために惜しみなく使え――。喜びを先送りせず自分の人生を豊かにすることに意識を向けて何も残さず“ゼロで死ぬ”。野球の話題は出てこないビジネス書には、自身のキャリア観で腹落ちする部分が多かったそうだ。

「長いスパンで人生を捉えた中で考え方がちょっと変わりましたね。“ゼロで死ぬ”っていう……」

 まさに“ゼロで死ぬ”ために藤浪は海を渡ったのだろう。だからこそ、メジャーで打ちのめされようとも、マイナーでどん底を味わっても、前進し続けてきた。

 当然、メジャーで数字を残すことが自身の求めるベスト。それでも、成功と失敗の二元論でアメリカでの挑戦を捉えていない。2025年、どこのマウンドで腕を振っているのか。海を渡った藤浪晋太郎の旅にはまだ続きがあることを願っている。

[取材・文:遠藤礼]

 

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