パリ五輪男子フルーレ団体。金メダルを獲得したキャプテンの松山恭助(JTB所属) photo by JMPAフェンシング・松山恭助 インタビュー後編インタビュー前編はこちら>> パリ五輪のフェンシング男子フルーレ個人10位、団体で金メダルを獲…


パリ五輪男子フルーレ団体。金メダルを獲得したキャプテンの松山恭助(JTB所属)

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フェンシング・松山恭助 インタビュー後編

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 パリ五輪のフェンシング男子フルーレ個人10位、団体で金メダルを獲得した松山恭助。インタビュー後編では、五輪前日でのアクシデントや、結果を出せなかった個人戦から団体戦までの葛藤を含め、包み隠さず語ってくれた。

【W杯優勝がもたらした変化】

――23年の世界選手権は個人で3位になり、団体も初優勝。パリ五輪へ向けて躍進しましたが、メダル獲得への自信もつきましたか。

 世界選手権で勝ったから何かが大きく変わる、というのはまったくなかったですね。自分のなかで大きかったのは、(22年の)ワールドカップ個人の初優勝で、あれが自分のフェンシング人生のなかで一番大きいターニングポイントだったと思います。自分のなかのスタンダードが上がった感覚がありました。

(23年の世界選手権では)こういう取り組みをすればうまくいくなという自信を得ることができたのもありますが、どちらかというとフェンシングへの取り組み方や、見え方が少し変わりました。これでもう五輪でメダルを獲れるという感覚はまったくなかったですが、メダルを獲れるレベルには近づいているなというのは、結果とともにジワジワ感じてきました。

――22~23年から団体は世界ランキング1位になりましたが、どういう気持ちでしたか。

 うれしかったけど、ポイントを計算していなかったので誰も知らなくて(笑)。それぐらいみんな結果にこだわっていませんでした。僕もワールドカップで優勝してからは周りの人を気にしなくなったし、比較もしなくなりました。

 それまでは結果が出ないと、他の選手と比較していた部分もあったけど、今はもう他がどういう結果を出したとか、どういうことをしているとかは、いい意味でぜんぜん興味がなくなりました。それよりも自分がやるべきこと、勝つことによりフォーカスしていきました。結果論でランキングが決まっているだけだという感覚になったので、その辺は変わりましたね。

――でも安心感はあったのではないですか。

 それもありましたが、とにかく早くパリ五輪の出場権を獲りたいという思いがみんなのなかにあって、とにかく必死で......。五輪が考えられるようになったのは(24年)3月くらいでした。僕は個人戦ではけっこう早めに出られる見通しはつきましたが、それが100%になるまでは安心できなかったですし、他のチームメイトもまだ混沌としていました。チーム内の争いでギクシャクすることはなかったけど、みんなが個人の代表争いを必死でやっている感じでした。

【感情のすべてを受け入れた3日間】

――(団体戦は)第1シードでの五輪出場でしたが、プレッシャーはなかったですか。

 逆によかったなと思っていました。初戦の相手がカナダでしたから。普通にやれば勝てる相手だったので、精神的にラクでした。絶対にメダルを獲らなくてはいけないというプレッシャーのなかで1戦目がカナダだったので、メダル争いの相手になる次のフランスや中国を見据えやすかった。カナダとは個々の選手のレベルもかなり差があったので油断しなければ問題ないなという感覚でした。

――個人ではベスト16で負け、飯村選手はベスト4までいきましたが、敷根選手は1回戦負け。そういうなかでの準備はどうでしたか。

 団体戦のメダルは、日本のなかでも僕らに一番チャンスがあったので、そのプレッシャーと、日本が3日連続でメダルを獲っていて最終日が自分たちだったというプレッシャーもありました。

 自分が、個人で負けた気持ちを切り替えなくてはいけないのはわかるけど、本当に一生をかけて臨んで負けた戦いだと簡単に切り替えるのは不可能だと思ったので、とにかく毎日自分の感情の全部を受け入れました。どんなにネガティブな感情になったとしても「切り替えなくちゃ」とは思わずに、今の自分を全部受け入れ、そのうえでもう一回戦える姿勢を作ろうと思っていました。

 あの3日間は本当に気が気じゃなかったし、精神的にもズタボロだったんですけど、とにかく一日一日を本当に一生懸命生きてしっかりと受け入れ、「絶対に勝つ」という気持ちを表面上ではなく、心の底から思えるよう準備しました。

パリ五輪の記憶を振り返る松山

 photo by Gunki Hiroshi

――自分のなかでは絶好調ではないという気持ちがあるから、それを全部受け入れて進むしかないということですね。

 そうですね。本当にパリは個人も団体も本調子じゃなかったです。周りにはあまり言っていませんが、4月にヘルニアで腰を負傷してからはリハビリと練習をずっと同時並行でやるしかなかった。五輪でも個人の前日に急に腰が痛くなり、体のなかのバランスもおかしかった。試合当日はまだ大丈夫でしたが、そういう難しさありました。

 でも、今の自分が持っているベストを出す練習を、日頃から一番心掛けてやってきていました。ある時、コーチに「お前がベストを出せば、五輪でも絶対メダルを獲れることはこれまでの試合で証明している。でも、もしかしたらベストではない朝を迎える可能性もある。それでもメダルを獲りにいかなくてはいけないし、絶対に逃げてはいけない。どんな状態でも五輪には行かなくてはいけないし、それでも戦える準備をしないといけない」と言われていました。

 そこからは練習のなかで、自分の全部を出し切るよりも、疲労や痛みがあるなかでも今の自分ができることに最大限集中する、できることとできないことを取捨選択して、今持っているものを出し切るという練習を3カ月ぐらいやってきていました。

 五輪の時は本当に調子が悪かったしダメだったけど、今できることをとにかくやるしかないという取り組みが、トータルで見たら実ったと思うので、すべてそういう練習の賜だと思っています。

【個人の金は次へのお預け】

――団体戦はカナダに45対26で圧勝し、準決勝のフランスは45対37、決勝のイタリアも45対36と強かったですね。

 初戦で一人ひとりが目の前の1点1点に集中してバトンを繋ぎ、それが結果的に勝ちに繋がるという意識を共有できました。フランス戦は途中までまさに死闘でしたが、向こうが先に痺れを切らしたところで、こっちは淡々と点を稼いでいって離れたという感じでした。

 僕も23対23で受けた2試合目の(エンゾ・)ルフォール戦は「絶対にターニングポイントになる試合だ。ここはお互いに取りにいくので絶対に点数が動く。どちらかが30点に乗せるな」と思っていて、自分の五輪のなかでは一番大事な試合でした。そこで7本取って30対27にしたのが勝因でした。

 もし負けて3位決定戦に回ったら精神的にもきつくなるから、メダルを獲りにいくならここは全部ぶち抜かないと、という意識でした。本当に無我夢中で。そこを乗り切ったあとは、決勝が終わるまで集中が切れなかったですね。


男子フルーレ団体で初の金メダルを獲得。左から2番目が松山

 photo by JMPA

――金メダルを獲れなかったら日本に帰れない、という思いで戦った団体戦ですが、戦い終えたあとはどんな思いでしたか。

 団体で勝ったからこそ、個人でダメだった悔しさが逆に出てきましたね。ただ今回に関しては団体で金メダルを獲れたので、個人がどうだというのはもういいかなと思うし、次へのお預けだと考えています。

 ただ、次の五輪にはもっと実力的にも盤石な状態で臨みたい。今回は数字的にはわりと盤石なところで五輪を迎えられたけど、実力で考えると少し......。(個人戦も)調子がよければ本当に優勝もメダルも可能だったと思うけど、ちょっと調子が悪いとまだベスト8や16で負けてしまう実力だなと客観的に振り返って思いました。その地力を上げていくことができれば、次のロサンゼルスはチャンスがあると思うので、そういう積み重ねかたを1年1年やっていきたいと思っています。

――パリ五輪の日本フェンシングの躍進はどう分析しますか。

 以前は五輪に出場するのが目標でしたが、それがいつしか通過しなければいけない場所という雰囲気にみんながなってきました。そのうえで本当にメダルを獲る戦いができる選手が増えてきたこが大きいと思います。今回はみんながメダルを獲りにいく意識を持っていて、その目標のもと、何年間も積み上げてきていました。実力もないといけないし巡り合わせも必要だけど、その辺が噛み合った瞬間だったと思います。

――これからもフェンシングを続けていくうえで、次はどんな目標を持っていますか。

 五輪2大会連続金という大きな目標はありますが、その前のものとして今一番考えているのは、個人戦でのグランドスラムを達成するという目標です。世界選手権、アジア選手権、グランプリ、ワールドカップ、五輪の個人での金メダル。全部メダルは持っているけど、3位も多いので。アジア選手権とワールドカップはもう達成しているので、残りの世界選手権とグランプリと五輪。もちろん難しいことだとは思いますが、それを生涯で達成したいですね。



松山は次なる目標に向けて邁進する

 photo by Gunki Hiroshi

【Profile】
松山恭助(まつやま・きょうすけ)
1996年12月19日生まれ、東京都出身。株式会社JTB所属。4歳からフェンシングをやり始め、小学2年のときに全国大会で優勝する。小学5年から世界大会に出場し、高校時代は1年から3年まで男子フルーレ個人戦で3連覇を達成。高校1年時にはU-17世界選手権を制覇した。その後も数々の国際大会で活躍し、東京五輪にも出場。男子フルーレ個人14位、男子フルーレ団体4位の結果を残した。2022年11月のワールドカップ、男子フルーレ個人で金メダルを獲得。パリ五輪では男子フルーレ個人10位、男子フルーレ団体で金メダルに輝いた。