“北陸のドクターK”内海擁する敦賀気比との延長10回の激闘制す 大物左腕を攻略して聖地切符を勝ち取った。元広島外野手の天谷宗一郎氏(野球評論家)は2000年、福井商2年夏に甲子園出場を果たした。“北陸のドクターK”内海哲也投手(元巨人、西武…

“北陸のドクターK”内海擁する敦賀気比との延長10回の激闘制す

 大物左腕を攻略して聖地切符を勝ち取った。元広島外野手の天谷宗一郎氏(野球評論家)は2000年、福井商2年夏に甲子園出場を果たした。“北陸のドクターK”内海哲也投手(元巨人、西武)を擁する敦賀気比を県大会決勝、延長10回の末に3-2で下してつかんだ栄冠だった。「僕は全然打てませんでしたけど、先輩たちがやってくれました」。驚くべきことが起きての結果でもあった。延長1点差勝利などを何と先輩の一人が事前に“予告”していたという。

 当時の敦賀気比の強さは際立っていた。1999年秋の福井大会、北信越大会は他を寄せ付けず優勝。2000年春の選抜は不祥事で出場辞退になったが、夏もVの有力候補だった。福井商も2000年春の県大会決勝で敦賀気比に1-9で完敗。「気比には絶対に勝てないというふうに言われていた。内海さんは僕より1個上。ライバルなんて思うこともない存在でしたね」。そんな難敵に2000年夏に勝った。決勝で延長戦の末に撃破して福井商が甲子園出場を決めた。

 その夏の福井商は丹生を3-1、敦賀を3-0、準決勝は足羽を5-1、そして決勝は敦賀気比を破ったが、天谷氏の調子はいまひとつだったという。「初戦は4番だったんですよ。それが2戦目は5番、3戦目は6番、決勝は7番と1つずつ打順が下がっていったんです。内海さんには4打数ノーヒットで3三振じゃなかったかなぁ。だってあんな速い球、見たことなかったですから」。そんな中で先輩たちが奮闘して勝利をつかんでくれた。

 それに関連して天谷氏はこう明かす。「(福井商の)北野(尚文)監督はその時のトレンドを大事にしてくれて、メンタルトレーニングがちょうど流行し始めた頃だったので、監督がその先生を呼んでくれて部員全員でやったんです。そのなかの一つに『自分がなりたいこと、甲子園に行くまでの過程を書きなさい』というのがあって、みんなサヨナラホームランを打つとか漫画みたいなことを書いたけど、キャプテンの尾崎(光雄)さんだけが違っていたんです」。

活躍できず敗退…地に足がついていない状態で終わった初の聖地

 振り返れば、それがびっくりの内容だったという。「尾崎さんは“敦賀気比と決勝で当たります。接戦になります。延長戦に入ります。右中間に僕が打ってギリギリ1点差で勝ちます”みたいなことを書いていた。まさに、すべて同じことになったんですよ。(延長10回に)尾崎さんが右中間に(勝ち越し三塁打を)打ったんです。すごいなぁ、メンタルトレーナーって思いましたね」。好投手・内海を攻略した裏にあった“予告シナリオ”も強烈な思い出になっているわけだ。

 夏の甲子園は1回戦で浜松商(静岡)に1-2で敗れた。天谷氏は福井大会決勝同様、「7番・右翼」で出場したが、活躍できなかった。「状態が戻らなかったのでね。僕の悪い癖というか(県大会初戦の)出だしが良ければポンといったんでしょうけど、つまずいたら修正するのに時間がかかるタイプでしたからね」。甲子園の雰囲気にものまれたという。

「打席に立った時に、こんなに広い球場があるのかと思った。何かあっけにとられて気付いたら終盤だった感じ。浮足立って地に足がついていない状態で終わったのが初めての甲子園でした。あ、そうそう、バントしようとしたらインサイドに来てデッドボール。怒ってバットをぶん投げたことだけ覚えています。それ以外は覚えていない。緊張していたし、夢というか、憧れで目標にしてきた甲子園でしたから」

 祖父・幹男さんが見たいと言っていた孫である天谷氏の福井商のユニホーム姿での甲子園出場。祖父が亡くなった小6の時からその願いをかなえようと頑張ってきて、先輩のおかげとはいえ、ついに実現させた。「2年生の夏に甲子園を経験できたのはむちゃくちゃ大きかったです」。今度はもう一つ上のランクを目指すきっかけにもなった。そのバット術をさらに進化させ、高3の2001年は春夏連続で甲子園切符をつかむことになる。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)