2024年は、松山英樹の復活を印象付けた一年だった。2月「ジェネシス招待」で2年ぶりの優勝を遂げ、プレーオフシリーズ「フェデックスセントジュード選手権」も制した。PGAツアー勝利数をアジア勢最多の10に伸ばし、一時55位まで後退した世界ラ…
2024年は、松山英樹の復活を印象付けた一年だった。2月「ジェネシス招待」で2年ぶりの優勝を遂げ、プレーオフシリーズ「フェデックスセントジュード選手権」も制した。PGAツアー勝利数をアジア勢最多の10に伸ばし、一時55位まで後退した世界ランキングは6位(12月15日時点)とカムバック。充実したシーズンにあって、8月「パリ五輪」の活躍は燦然と輝く。日本男子ゴルフ界初となる銅メダル獲得を語りつくす。<全2回の前編/後編に続く>
グリーンジャケットとメダル
日本で少しだけゆっくりできるこの時期、松山は身近な人たちと接する中で例年とひと味違った感覚を抱いているという。3年前に「マスターズ」を制してグリーンジャケットを日本に持ち帰った時と比べても、「反応はたしかに違いますよね。ゴルフを知らない人が喜んでくれたり、興味がなかった人が興味を示してくれたり。単純に、オリンピックってすごいなって」
オリンピックイヤーという一般的な位置づけに対して、松山を中心とするチームの面々は今年の始まりからそこに重きを置いていたわけではなかった。身体の痛みに悩まされた昨季はPGAツアー上位30人の最終戦「ツアー選手権」出場が9年連続でストップ。継続中選手では最長だった記録が途絶え、主戦場でのエリートフィールド返り咲き、そして22年1月「ソニーオープン」から遠ざかっていた優勝にターゲットを据えていた。
「ゴルフってそんなもんですか?」と寂しく言ったのは10年前だった 五輪に懸けた胸の奥底
「振れない、飛ばない」米国10年目のジレンマ/2023年末インタビュー(1)
それでも、「個人的に行ったこともないので…」となじみのなさを苦笑交じりに話していたはずのパリで、松山は闘志をみなぎらせていた。メジャー「全英オープン」を終え、ロンドン滞在を経てオリンピック前週の土曜日、7月27日の午前6時頃から練習場に一番乗り。黒宮幹仁コーチがメダル獲得直後に「このオリンピック期間中、誰よりも準備した自負はあります」と明かす調整は熱を帯びた。
「全英が終わって出てきただけです。全英が終わって次の試合がオリンピックだったから、オリンピックに照準を合わせた」。本人はいつものように目の前の試合で全力を尽くしただけとしながら、モチベーションに火をつける出来事もたしかにあった。
「誰よりも準備した自負がある」コーチが明かす狙って獲ったメダル
人見知り発動…から意気投合
「今年仲良くなった人が、残念ながらオリンピックでプレーできなくなった。その人の姿を見ていると、オリンピックでプレーすることの特別さを理解した…いや、し切れてはいないと思うんですけど、すごいことなんだなと改めて思ったので、出られなくなった人たちの分も、しっかり頑張っていきたいなと思います」
パリで開幕前に語っていたのは、21年「東京五輪」で銅メダルを懸けた7人プレーオフに敗れたリベンジよりも強い“仲間”への思い。メダルを勝ち取ったル・ゴルフ・ナショナルのミックスゾーンでも名前を伏せた友人は、ハンドボールの東江雄斗(あがりえ・ゆうと)選手だった。
金メダルか、グリーンジャケットか 「日本国民に対してだったら…」
「初対面で話した時とかね、お互い人見知りなんで、(なかなか)しゃべれない。でも、2、3時間経って、話していく中で面白いなっていう感じがお互いにあって」
昨年10月のアジア予選で主将として2大会連続の切符獲得に貢献した東江選手。前回東京は開催国としての出場だったため、自力では1988年ソウル五輪以来の快挙でもあった。しかし、オリンピック本番の最終メンバーからまさかの落選となった。
「彼は当然選ばれる立場だったと思うんですけど、落選してしまった。(パリ五輪に)出ようと思ったきっかけは“そこ”ですね。最終的な決め手になったのは、そこです」
傷心気遣い「飲みに行こう」
ハンドボールのメンバー発表を受け、松山はすぐにLINEでメッセージを送ったという。「『大丈夫かー?』って聞いたら、『大丈夫じゃない』って。『じゃあ、飲みに行こうぜ』とか言いながら…」。当時のやり取りを冗談めかしつつ、目の当たりにしたオリンピックという一世一代の舞台に懸けるアスリートのリアルな姿に揺さぶられるところがあった。
「これまでオリンピック選手と関わることがなかったので。ゴルファーも争っている中で出られる人、出られない人がいますけど、ほかのスポーツとゴルフは、ちょっとまだ(五輪の位置づけも異なる)。僕の意識づけも違いますし。彼が身近にいたことで、やっぱり出られることって特別なんだな、出るのは当たり前じゃないんだな、みたいな感じがありました。やっぱり出場して、結果を出して、また会いたいなって」
競技の枠を超えた友の無念も背負う形で出場を決めたパリ五輪。表彰式を終えて「帰ったら(東江に)見せつけてやりますよ」とうれしそうに笑った銅メダルをつかむまでの戦いは壮絶を極めた。(聞き手・構成/亀山泰宏)