フェンシング・宮脇花綸インタビュー(後編)photo by Fujimaki Goh hair&make-up by Mayumi Shiroishi 今夏開催されたパリ五輪において、日本のフェンシング女子フルーレ団体が銅メダルを獲得する…

フェンシング・宮脇花綸インタビュー(後編)



photo by Fujimaki Goh hair&make-up by Mayumi Shiroishi

 今夏開催されたパリ五輪において、日本のフェンシング女子フルーレ団体が銅メダルを獲得する快挙を果たした。その一員として奮闘した宮脇花綸に、メダル獲得までの道のりについて語ってもらった――。

――迎えたパリ五輪。東京五輪で男子エペ団体が金メダルを獲得し、そこから他の種目も五輪でのメダル獲得への意識が高まっていたのではないでしょうか。

「五輪の団体戦は8チームでの争いですから、最初の試合に勝てば、グッとメダルが近くなります。2022年世界選手権では、男女ともフルーレ団体は4位でした。でも、女子サーブル団体、男子エペ団体は3位。ほかの種目とは互いに頑張ろうという仲間ではあるのですが、負けたくないライバルでもあります。それぞれ切磋琢磨してがんばっているので、それがパリ五輪ではいいほうに転んだと思います。

 実際、パリ五輪では(女子フルーレの)個人戦はみんな初戦で負けてしまいましたけど、その日に男子エペ個人で金メダルを獲った加納虹輝選手の表彰式を見て、(女子フルーレ団体メンバーの)4人で『私たちも絶対にメダルがほしいね』という気持ちになりました」

――ご自身がパリ五輪へ向けての目標としていた女子フルーレ団体の、「チームで3番目の役割を果たす」存在として定着できたなと思ったのは、いつぐらいでしょうか。

「2023年世界選手権のときには、そういう選手になれたかなって思いました。パリ五輪への選考レースが始まった最初の大会で個人ベスト8に入り、3戦目でもベスト8入り。団体戦でも、その2023年の世界選手権で3位。3位決定戦のアメリカ戦では、しっかり自分の試合をしてチームの勝利に貢献できたかなと思ったので。それぐらいから、団体の3人目として自信を持って試合をできていたと思います。

 ただ、団体のメンバーはコロコロ変わる状況にあって、2023年のときもメンバーに入れなかったことがありました。パリ五輪のメンバーは最終的に誰になるのか、わからない状況でした。

 それでも、選考レースが始まってからは、団体メンバーに入って自分のなかでも手応えを感じられる試合ができていました。そういう意味では、選考レースが始まって以降、自分がやりたい試合を、自信を持ってできていたというのがすごくよかったと思います」

――東京五輪で悔しい経験をしたことも糧になったと思いますが、五輪に出場してメダルを獲得するまでに至ったご自身の成長をどんなところに感じましたか。

「具体的に成長した部分を挙げるのは難しいのですが......、ランキングポイントやメンバー選考がどうこうより、とにかく『今までの自分の人生経歴が、すべて今の私につながっている。試合を発表会みたいに考え、自分が持っているものを全部出すだけだ』ということに集中できたことが大きかったと思います。

 自分を信じられたというか、今までいいときも悪いときもあったけど、そのすべてが(今の)自分を作っているから、今の自分が持っているものを全部出せばいいんだ、という考え方をしていて。

 コーチからも、『練習もすごくやっているから、技術の問題はない。あとはメンタルの部分だけだよ』とずっと言われて。『とにかく考えすぎないで、自分の持っているものを解放してやればいいんだよ』と。今も、ですが、そう言われ続けてきたことは大きかったかもしれません」

――それ以前は、コーチの言葉もなかなか受け入れられなかったのでしょうか。

「東京五輪の前までは、まだフェンシング的にも自分のスタイルが確立できてなかったと思います。特に攻撃の部分では、自分が自信を持って攻撃することがなく、防御型で時間を目いっぱい使ってやるタイプでしたし......。

 そうして、東京五輪が終わってからコーチに本格的にフレッシュを、(矢のように)前に走り込んでいく攻撃を教えてもらって。そこで、防御だけではなく、攻撃でも試合を作っていくことができるようになりました。

 それで視野が広がったというか、防御一辺倒ではなく、攻撃を入れながら試合を作っていけるようになったので、相手がどういうタイプの選手でも対応できるようになって。いろんな引き出しを持って試合ができるというのが、戦術的な面で自信になったのかなと思います」

――フレッシュをうまく使えるようになると、自らのフェンシングに新たな発見もあったのではないですか。

「そうですね。ただ、フレッシュも技術的にはできるようになっても、それを思いきって使えるかどうか、という精神的な部分が重要で。たとえば、試合開始直後に思いきり突っ込んでいくとか、(自分のなかで)思ったよりも頻繁に使えるようになったなと感じたのは、2023年の春から世界選手権があった7月くらい。そこでようやく、フレッシュが武器にできたというか。それは、大きかったと思います」

――先にも少し触れてもらいましたが、個人戦で3人とも初戦で敗れたあと、そこから団体戦に向けてどう気持ちを切り替えていったのでしょうか。

「個人戦ではいろんな人に『緊張しないでね』『楽しんでね』と言われていたので、『初めての五輪は緊張するんだ』と思って緊張しないことを意識したら、緊張感がまったくなくて(苦笑)。あれだけの会場で、相手もフランスの選手だったので、コーチからも事前に『アウェーで歓声もすごいし、応援もすごいから』と言われて、それを気にしないようにしようと理性的になりすぎたのが、逆によくなかったのかなと。

 それに、個人的には個人より『本命は団体戦』という思いがあって。ですから、団体戦に向けては、結構緊張感を持って臨みました」

――団体戦の初戦はポーランド。当然、勝ちにいった試合だと思います。

「そこを勝たないとメダルは獲れないし、正直5位~8位はどうでもいいというか、そちら(5-8位決定戦)に回ることは考えていませんでした。(試合前に)ポーランドに勝つにはこういう展開に、という話をみんなでして。最初はリードを奪われても、早いうちに取り返して、勝っている状態でその後の選手に回せればいい、と。

 それで実際、2番目の上野優佳選手と3番目の私のところで逆転できて、すごくいい形でいけました。あとは、みんな5点ずつ取ってつなげて、6試合目で30対18。おおよそ大勢は決しました。ポーランドの4人目の選手とはみんな相性がよくなったんですけど、結局(試合に)出てこなかったことも幸運でした」

――続く準決勝の相手は世界ランキング1位のイタリア。39-45で敗れました。

「イタリアは一度も勝ったことがない相手で、(日本の)3人全員の調子が本当によくないと勝てないのはわかっていました。実際に強さも感じました。それでも、万全の状態で負けたとか、ギリギリ勝てなかったとかではなかったので、3位決定戦に向けてすぐに気持ちを切り替えることができました。

(3位決定戦で戦う)カナダには負けたことがなくて、やりにくい相手ではあるけど、自分たちの試合をすれば勝てる相手でした。ですから、みんな『絶対にメダルを持って帰ろう』という気持ちが強かったと思います」

――結果的に、3位決定戦はロースコアでの大接戦となりました。

「ロースコアになるのは想定内でした。ただ、リードされると追いつくのが難しい相手なので、絶対にリードを許さないでじわじわと差を広げていく形を描いていました。

 でも、カナダは個人戦でも3位になった(エレノ・)ハービー選手が好調で、3点リードからなかなか突き放せなくて......。相手の本気も伝わってきて、かなり苦しい展開でしたが、最後の上野選手に3点リードでわたって。そのとき、彼女は勝ちきるタイプなので、負けないと思っていました。1点差になったときも大丈夫だと信じていました」

――結果、銅メダルを獲得。率直にどういった感情でしたか。

「(うれしいというより)ホッとした、という気持ちのほうが大きいですね。パリ五輪では女子フルーレ初のメダルを獲るのが目標で、もしそれができなかったら、4年後となると(自分は)どうなるかわからないし......。チームとしても今後、そういうチャンスが絶対にくるとは限らないですし。だから今回は最低限、と言ったら語弊があるかもしれませんが、メダルは絶対だと思っていたので。

 それでも、メダルを獲ったあと、周りの人がすごく喜んでくれているのを見て、世界選手権の銅とはまったく違う重みがあることを実感しましたし、『本当によかったな』とうれしさが込み上げてきました」

――今後に向けてはいかがですか。個人でもさらなる高みを目指して、ロサンゼルス五輪に向かっていくことになるのでしょうか。

「ずっと前からパリ五輪では団体でメダルを、ロサンゼルス五輪では個人と団体でメダルを、というのを想定してきたので。団体も次は金メダルを狙うことを考えると、個人でも常にメダルに絡んでいくような選手にならなくてはいけない。それを今後、2年ぐらいかけてやっていく、というのが第一の目標です。私は"バランスよく"というタイプなので、その目標に向けては、平均点をいかに上げていくか、だと持っています」

(おわり)



photo by Fujimaki Goh hair&make-up by Mayumi Shiroishi

宮脇花綸(みやわき・かりん)
1997年2月4日生まれ。東京都出身。三菱電機(株)所属。姉の影響で幼稚園の頃からフェンシングを始める。小学校、中学校時代にはさまざまな大会で活躍。2014年南京ユースオリンピックで日本代表に選出され、女子フルーレ個人で銀メダルを獲得。2016年リオデジャネイロ五輪、2021年東京五輪出場は叶わなかったが、2024年パリ五輪に出場。女子フルーレ団体で銅メダルを獲得した。