スポーツを支える仕事〜栄養・コンディショニングサポート/栗原秀文 毎年12月になると、東京六大学リーグなど大学野球で活躍する選手たちの進路、就職先が発表になる。ドラフト指名を受けてプロ野球に進む者もいれば、社会人野球でプレーを続ける者もいる…
スポーツを支える仕事〜栄養・コンディショニングサポート/栗原秀文
毎年12月になると、東京六大学リーグなど大学野球で活躍する選手たちの進路、就職先が発表になる。ドラフト指名を受けてプロ野球に進む者もいれば、社会人野球でプレーを続ける者もいる。しかし、ほとんどの選手たちは野球から離れて、新しい世界に飛び込んでいく。
現在、味の素株式会社のビクトリープロジェクトのプロジェクトリーダーをつとめる栗原秀文は立教大学野球部の出身。彼が入社した1999年は、就職氷河期の真っ只中にあったが、"バブル時代"の名残もわずかにあったと、栗原は言う。
「私が中学生の頃、リゲインという栄養ドリンク剤のCMで『24時間戦えますか』というフレーズが流れていたのを覚えています。その頃の印象が強くて、社会に出てサラリーマンになったら、自分の意思を封印して企業の歯車になるものだと思い込んでいました」
2024年パリ五輪の
「JOC G-Road Station」で栗原秀文氏(右から2番目)がサポートしている競泳日本代表の選手たちとの写真 photo by JOC
彼が採用された味の素社は、1909年に事業を開始。その後、世界初のうま味調味料『味の素』が発売された。以来110年以上、「おいしく食べて健康づくり」という志を持ち続けている。食品事業、ギフト事業、アミノ酸事業のほか、医療事業も手がけている。
「大学時代のキャリアとかコネクションと関係なく就職を決めたので、野球との縁は切れたものだと思いました。未練みたいなものは全然なくて、これから命じられる仕事をとことんやろうとだけ考えました」
栗原は名古屋支社に配属になり、味の素社の製品、『CookDo』や『ほんだし』をスーパーマーケットなどに売り込む営業の仕事を任された。
「初めて仕事をしてみて、自分なりに成長を感じる一方で悶々としていました。『歯車になる』と決めたものの、『本当にこれでいいのか......』という思いがあって。しかし、初めは何を目指せばいいのかわかりません。それでも考え続けるうちに、社会人になる時に一度切り離したスポーツではないかと思うようになりました」
【人脈を広げるため名古屋と東京を往復】
栗原は、スポーツに関わる仕事について調べ始めた。
「野球部時代からトレーニング好きで、体の構造などにも興味がありました。トレーナーや治療家になることも考えたのですが、専門学校などに通い直す必要があります。それには、時間もお金もかかります」
そこで、栗原は自社の事業についても見直した。
「当時はスポーツに関する事業は、まったくありませんでした。唯一あったのが、『アミノバイタル』というスポーツサプリ、アミノ酸のサプリメントを扱う事業でした。ほかに医療用の点滴の輸液として使うものもあって、世界のシェアの6割くらいを占めていました。だけど、病気の人にしか使ってもらうことができない。もっと利用者を拡大することを考えると、健常体でありながらアミノ酸の摂取を必要とするような、体にダメージを負っている人と言えばスポーツ選手ですよね。そのために開発されたのがアミノバイタルでした」
栗原はまだ名古屋勤務だったが、週末になると東京へとやってきた。
「スポーツ界での人脈が、私にはありません。それをつくるためには神宮球場に行くしかないと考えました。東京六大学の開幕に合わせて、東京と名古屋を行き来しました。もちろん、交通費は自腹です。プライベート用の名刺をつくって、野球界やそれ以外の競技関係の方に配りまくりました」
お礼の電話をし、再会のお願いをすることで知り合いの輪が少しずつ広がっていった。栗原の"課外活動"は、入社2年目から4年間続いた。
「時には、野球やサッカーをしている子どもの保護者を対象にした勉強会にも出ました。そこで私はアミノ酸について話すんですが、みなさんが興味を持っているのは食事のこと。『どういう食事をつくれば背が伸びますか』とか『うちの子は食が細いんですが、どうすればいいですか』とか。そして最後に『味の素さんならわかるでしょ?』と言われました」
栗原はこの時、保護者がいろいろな悩みを抱えていることを知ったのだ。
「でも、私には食事や栄養についての知識が不足していました。味の素の看板を背負っている以上、中途半端なことはしゃべれません。分厚い専門書を読みまくり、実践で栄養の知識を身につけました。それが私の原点です」
【日本代表を栄養でサポート】
入社5年目の夏、東京に転勤。2003年に始まった『ビクトリープロジェクト』に、栗原は少し遅れて参加。2006年冬季に開催されるトリノオリンピックに向けた活動を任された。
「アスリートに対して『アミノ酸をうまく活用すれば、コンディショニングを変化させることができる』と伝えられるチャンスを得ました。だけど、よい状態を保つためにはサプリメントだけでは十分ではありません。その土台、すなわち食事がしっかりしていないと効果は生まれにくい。つまり、栄養についてきちんと伝えられない限り、効果は限定的なものになってしまうのです」
2006年2月、フィギュアスケートの荒川静香が冬季トリノオリンピックで金メダルを獲得した。
「私は荒川さんのサポートをさせていただき、『これからもっと!』と思っていたのに、大会後にビクトリープロジェクトから一時的に外れることになりました。『おまえのエネルギーを、今度はアミノバイタルを売ることに使ってほしい』と言われました。
1カ月、悩みに悩んで、その答えを出しました。アミノバイタルを多くの人に売ることで、栄養の大切さ、アミノ酸摂取の効果が多くの人に伝わる。そうすれば、日本のスポーツに貢献することができるはずだと考えたのです」
アミノバイタル部に配属となった栗原は、マーケティングをイチから勉強することにした。
「アイテムの開発、マーケティングの基本などを学ぶ貴重な修行期間になりました。厳しくはあったのですが、そのおかげで知識も力もついたと思います」
【世界と戦うためにはチームが必要】
2008年に行なわれた北京オリンピックのあと、味の素社はJOCのゴールドパートナーになり、トップアスリートとの関わりは、さらに増えた。
「オリンピックの日本代表候補になるような選手は、そもそも実力、地力がすごい。自分の力だけでそのレベルまで上がってくるくらいでないと、まず世界とは戦えません」
しかし、国の期待を背負って世界中の猛者と戦うためには、個人の素質や力量だけでは太刀打ちできない。
「コンディショニングをよくする、パフォーマンスを上げるためには、"チーム"が必要だと私は考えています。そのサポートを味の素という会社全体でさせていただけることになりました」
しかし、トップアスリートにはそれぞれの哲学があり、成功体験がある。簡単には外から意見を取り入れてはくれない。ここで栗原の大学時代の経験が生きた。
「私自身の大学時代を振り返ると、栄養やコンディショニングに関する知識が不足していたから、3、4年生になって伸びなかったんだと思います。自分の失敗例を挙げながら、アスリートにお話することもありました。そうすると、私とは比べものにならないほどの実績を持つ選手たちも真剣に聞いてくれます」
2016年リオデジャネイロオリンピックから、味の素社はJOCから委託を受けて、『JOC G-Road Station』を運営するようになった。
「選手村の外のアクセスのいい場所に設置され、アスリートが立ち寄りやすく、食べ慣れた和軽食で栄養補給する環境ができました。それによって、我々のサポートは格段とレベルが上がり、『うま味』のきいたさまざまな食べ物を提供しています」
【笑顔でご飯を食べることが一番大事】
栗原が続ける。
「味の素という会社は、食卓においしさを届けることで成長してきました。でも、世の中の人たちは次のフェーズに入りかけている。おいしさ+αを求めていると10数年前に気がついたのです」
ニーズがそこにあるならば、対処しなければいけない。「保護者の悩みを解消するためには?」と栗原は考え続けた。
「そうしないと、子どもたちのために一生懸命にやっている保護者に失礼じゃないですか。その想いは今もあります」
食に対する意識の高い保護者と接するたびに思うことがある。
「多くの人が食に関する悩みを抱えています。食が細い、食べるのが遅い......悩みはそれぞれなんですけど、私はよくこう言います。『たくさん食べなさい』とか『これを食べないと』とか強制していませんか、食卓で勉強やスポーツの結果に関する話をしていませんか、と。食卓が楽しい場所にならないと、子どもたちは食べることを好きにはなりません」
栗原の言葉を聞いて、多くの保護者がうつむいたり、涙をこぼしたりする。
「とにかく、食事の時は難しい話をせず、ニコニコ、パクパクできるようにしてほしい。たくさん食べてほしければ、楽しい食卓にしないと。笑顔でご飯を食べることが一番大事だと思っています。それはアスリートも同じです」
それが『ビクトリープロジェクト』のスタイルだと栗原は力強く語った。
(文中敬称略)