井野修が語る思い出の退場劇(後編) 名アンパイヤとして通算34年、2902試合をジャッジしてきた井野修氏。前編につづき、後編では印象に残る3つの"退場劇"について振り返ってもらった。2000試合出場達成の偉業の日に退場となった古田敦也(写真…

井野修が語る思い出の退場劇(後編)

 名アンパイヤとして通算34年、2902試合をジャッジしてきた井野修氏。前編につづき、後編では印象に残る3つの"退場劇"について振り返ってもらった。


2000試合出場達成の偉業の日に退場となった古田敦也(写真左から2人目)

 photo by Sankei Visual

【ストップウォッチ片手に猛抗議】

── マーティ・ブラウン監督は「確信犯」だったという話をよく聞きました。

井野 ストップウォッチを片手に、ダグアウトを飛び出してきたことが何度かありました。おそらく、遅延行為による退場処分の目安の5分を計るためだったのでしょう。広島時代、ブラウン監督は8回退場処分を受けていますが、審判員への暴言が5回、審判員への侮辱行為が1回、遅延行為が2回です。しかも8回中6回が本拠地です。つまり、"計算"もあったのだと思います。

── なぜ、そんなことをしたのでしょうか。

井野 楽天の監督退任後、何かのインタビューで「どうせ退場になるのなら、お客さんを楽しませよう」と答えていたように、プロスポーツとしてのショーマンシップを心得ている方でした。私が彼に退場宣告したのは、2006年の広島市民球場での試合でした。ブラウン監督は「通訳が入るから、2倍かかる。だから遅延行為の目安時間を5分から10分にしてくれないか」と。「あなたの言うことはわからないでもないが......」と返したのですが、抗議のパフォーマンスが面白くて、思わず見入ってしまい、気づけば17分が経過していました。さすがに「これ以上は......」となり、遅延行為で退場を宣告しました。

── 古田さんを退場にさせた試合は、彼の2000試合出場の偉業達成日だったと聞きました。

井野 2007年の神宮球場でのヤクルト対横浜戦でした。横浜の11対0で迎えた7回表、二死一塁から石川雄洋選手が二塁に盗塁をしたんです。これだけ大差がついた場合、ふつうは盗塁しないという"暗黙のルール"があるんです。その後、内川聖一選手、村田修一選手が遠藤政隆投手から連続死球を受けました。村田選手への死球はカーブがすっぽ抜け頭部を直撃したことで乱闘騒ぎになりました。

── それで遠藤投手は危険球により退場。監督であり、マスクを被っていた古田さんが退場になった理由はなんだったのですか?

井野 遠藤投手の退場に、古田さんが説明を求めてきたのです。抗議がエキサイトして、思わず言葉が厳しくなってしまった。よくあることではあるのでが、その試合の責任審判だった私は、「審判員への暴言」を理由に退場処分としました。

── ちなみに盗塁をした石川選手ですが、そのシーズンはわずか1盗塁で、しかもプロ初盗塁でした。

井野 そうだったみたいですね。当時、石川選手は高卒3年目で、一軍定着のアピールに必死だったのでしょう。しかし翌日の練習中に打球を顔面に当て、唇を20針縫う大ケガを負い長期離脱したそうです。ちなみに翌2008年から、「大差の試合での盗塁は記録として認めない」という旨のルール改正が行なわれました。

【静の落合博満、動の岡田彰布】

── 岡田彰布監督も退場させているのですね。

井野 2007年、京セラドームでの阪神対中日戦でした。阪神の2点ビハインドで迎えた8回裏無死満塁で、鳥谷敬選手のセカンドゴロを荒木雅博選手が処理して、ショートの井端弘和選手に送球したのですが、私はアウトのコールをした瞬間、後悔しました。正直に言うと、明らかにミスの自覚はありました。一塁走者の藤原通選手が思った以上に俊足だったことは、私の危機管理不足でした。とはいえ、一度コールした以上「判定を変えます」とは言えません。

── それで岡田監督が抗議してきたわけですね。

井野 ものすごい勢いでダグアウトを飛び出してきて、二塁塁審だった私の体を突いたのです。これはアウト、セーフの正誤の問題ではなく、審判員への暴行を理由に退場を宣告しました。一方、中日の落合博満監督は極めて冷静で、ベンチからゆっくりと出てきて、高橋聡文投手に「落ち着けよ」とだけ言って、戻っていきました。当時は中日と阪神が優勝を争い、"竜虎の時代"と呼ばれていました。"静の落合監督""動の岡田監督"と、セ・リーグを代表する対照的なふたりの指揮官でした。

井野修(いの・おさむ)/1954年、群馬県生まれ。76年、神奈川大学在籍中にセントラル・リーグ審判部へ入局し、2009年まで所属。03年からセ・リーグ審判部長、両リーグ審判部が統合された2011年からNPB初代審判長を務めた。14年〜22年、NPB審判技術委員長兼日本野球規則委員。23年には四国アイランドリーグPlus、ルートインBCリーグの審判部アドバイザーに就任した。通算審判員歴34年、ペナントレース2902試合出場、日本シリーズにも12度出場している