連載 怪物・江川卓伝〜八重樫幸雄が抱いた特別な感情(後編) ヤクルト一筋23年、投手と正対する独特のオープンスタンスは「八重樫打法」と呼ばれ、独特の重厚感のなかに妙なコミカルさもあいまって人気を博した八重樫幸雄。 1978年に起きた江川卓の…

連載 怪物・江川卓伝〜八重樫幸雄が抱いた特別な感情(後編)

 ヤクルト一筋23年、投手と正対する独特のオープンスタンスは「八重樫打法」と呼ばれ、独特の重厚感のなかに妙なコミカルさもあいまって人気を博した八重樫幸雄。

 1978年に起きた江川卓の入団をめぐる一連の騒動の時、八重樫は現役バリバリのプロ10年目を迎える前のオフだった。「政治家が介入している以上、何も言えない」と、今でも口をつぐむ選手が多いなか、八重樫は自分なりの意見を述べてくれた。


ヤクルト一筋23年の現役生活を送った八重樫幸雄

 photo by Sankei Visual

【小林繁のほうがいやらしい】

「江川の入団時の騒動は、選手から見て『読売やりやがったな』と思ったし、今にして思えばその入り方も最初から決まっていたのかなと。『巨人以外は行かない』って、あとで考えると江川のほうがはめられたのかなという感じに思えるよね。最初の頃は『こんなことして入りやがって』と思ったけど、周りの大人たちにいいようにやられたんじゃないかな。そういう思いはある」

 日本中を震撼させた「空白の一日」。野球協約の盲点を突いて、江川を巨人に入団させるために読売側が策略。最終的にドラフト指名された阪神に一旦入団し、トレードという形で巨人に入った。ルールを無視した行動に対して「エガワル」という流行語も生まれるなど、江川は完全にダーティーヒーローとなった。江川へのバッシングは、翌年開幕してからもずっと続いた。

「江川が巨人に入団してからのイメージは、他球団だったからというのもあっただろうけど、悪いというのはなかった。ただ、ああいう形でプロ入りしてきたので、あまり関わりたくないというのはありましたけどね。僕自身は、江川よりも阪神に行った小林繁のほうが、逆にいやらしいなと思いましたよね。小林って行動に表わすタイプじゃないですか」

 阪神にトレードされた時の記者会見で、「請われて行く以上、同情はいりません」と目を据えながら話す姿は、小林の甘いマスクをさらに輝かせた。実際、1979年のシーズン、小林は獅子奮迅の活躍を見せてキャリアハイの22勝をマークし、そのうち8勝を巨人から挙げた。

【江川卓との初めての会話】

 八重樫にとって、ピッチャーではなく人間としての江川をどのように見ていたのか。

「いいピッチャーだと思いながらも、後輩だから『この野郎!』と思っちゃう時もある。江川って、どちらかというと淡々とムスッとしながら放るじゃないですか。それでも抑えられるから、なおさら腹が立ってくるんですよ。

 キャッチャーは別として、江川としゃべっているヤツを見たことがないんです。監督は話しかけているけど、あいつがペラペラしゃべっているところを見たことありますか? そういう場面を見たことがないわけですよ。テレビに出ていてもシャクに触るし、あの"空白の一日"があっため、一般の方も江川のことを嫌いだった人は多かったと思いますよ」

 ところが、そんな印象をガラッと変える出来事が起きた。

「宮崎の西都で秋季キャンプをやっている時に現役を引退したばかりの江川が来たんです。飛行機嫌いの、あの江川が来たんですよ。ブルペンに来て『八重樫さん、こんにちは』ってあいさつするから、『何で来たの? 電車?』って聞いたら、『いやいや、飛行機で来ました』って。その時に初めてしゃべった。しばらくピッチャー陣の投げ込みを見て、『いいピッチャーになりますね』と何人か名指しで言ってくれましたね」

 八重樫は現役時代に抱いていた江川のイメージを完全払拭とまではいかないが、殊勝な態度に驚いたという。

【夢の中でバッティングしている感じ】

 ヤクルトで23年間プレーした八重樫は、松岡弘、安田猛、井原慎一朗、梶間健一、尾花高夫、荒木大輔......数々の投手の球を受けてきた。そのなかでも忘れられないピッチャーを挙げてほしいと尋ねると、少し時間を置いて「サッシー」と答えてくれた。

 サッシーこと酒井圭一は、"江川フィーバー"から3年後の1976年、夏の長崎県大会3回戦で島原中央に16連続奪三振を記録するなど、圧倒的なピッチングを披露して甲子園出場を果たした。甲子園では準決勝でPL学園に敗れたが、5試合で被安打16、失点6、奪三振40の成績を残し、"サッシーブーム"を巻き起こした。同年秋のドラフトでヤクルトから1位指名を受け入団を果たした。

「酒井は速かったね。ふつうは高めが速いじゃない。でもあいつは低めが速い。ほかの投手だったら地面に垂れるようにボールが沈んでいくが、あいつの場合は逆で、飛行機が離陸するような感じでグッと伸びていく。高卒ルーキーとしてすごいじゃなくて、プロの投手としてすごかった。何人もの速球派のピッチャーを受けたけど、あんなに速い低めのボールは見たことがなかった」

 そんな酒井も、プロ14年間で挙げた勝ち星はわずか6勝に終わっている。八重樫はその理由について、こう語った。

「コントロールをつけるためにフォームをちょっと直されたらしいんだけど、それよりも原因は神宮での南海とのオープン戦。酒井が先発し、定岡のお兄ちゃん(智秋)に投げた外の真っすぐがちょっとだけスライスしたんですよ。そしたらバットの先に当たって、ピッチャーに向かって飛んでいった。酒井は打球を捕ろうとしたんだけど、グラブを出すタイミングが遅れて、ボールが左頬を直撃。陥没骨折となって、そこから目の焦点が合わなくなっておかしくなった。それがなかったから全然違っていたと思います。

 中継ぎで頑張りましたけど、そんなレベルじゃないですよ。あいつが一軍の中継ぎとして放れるようになった時は、変化球ピッチャーでしたからね。大舞台で投げた経験があったから一軍の試合でも放れましたけど、それを経験していなかったら、たぶん1年は持たなかったと思いますよ」

 あれだけのケガを負いながらも、甲子園の経験があったからこそ一軍のマウンドに立つことができたと八重樫は振り返った。

 高校、大学と大舞台で歴史に残るような記録をつくり上げた江川なら、最高峰のプロのステージでも活躍できて当然。さらに、神から授かった恵まれた肉体と抜群の野球センスがあったのだから、もっともっと偉大な記録を打ち立てられたはずと、八重樫は思っている。

 八重樫は江川と対決したことを「夢の中でバッティングをやっている感じ」だったと表現した。それほど江川のボールは、プロの目から見ても"ドリームボール"だった。

(文中敬称略)

江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している