10月のドラフト会議で、阪神から指名を受けた9選手(1~5位・育成1~4位)の連載をお届けする。初回はドラフト1位の伊原陵人投手(24)=NTT西日本=で、“野球道”を歩む上で大きな影響を受けることになった幼少期から中学時代を振り返る。 …
10月のドラフト会議で、阪神から指名を受けた9選手(1~5位・育成1~4位)の連載をお届けする。初回はドラフト1位の伊原陵人投手(24)=NTT西日本=で、“野球道”を歩む上で大きな影響を受けることになった幼少期から中学時代を振り返る。
◇ ◇
幼少期から活発な子だった。父・伸さん(57)は「どこに出ても人と接するのがうまくて。もじもじしない感じでした」と振り返る。2歳頃には、テレビ台の下に作ったストライクゾーンに見立てた的に向かって、紙を丸めたお手製のボールを投げていた。暇さえあればひたすら的に投げ込む。それが持ち味の制球の良さに「生きている」と伊原は話す。
本格的に野球を始めた小学3年時には投手と一塁手を主に務め、一通りのポジションを経験。低学年の時には「一番波があった」と野球を辞めたいと思うことも何度かあり数カ月の間、野球から離れてあまり外に出ない時期もあった。それでも野球好きの両親から強制されることはなく、自身のスイッチが入ったタイミングで野球を再開。完全に野球を断ち切ることなく、球道を歩んだ。
「すぐに逃げる癖があった」という小学校時代から変わり始めたのは、八木中学校に入学してからだった。4つ上の兄・拓人(ひろと)さんが同校で野球部だったこともあり、誰もが野球部に入部すると思っていた。伊原は周囲の意表を突いて仲のいい友人と柔道部に入部。「誰が何を言っても(野球は)絶対にやらない」と全く違う個人競技の部活を選んだ。
そんな中、1年後に野球への思いが突如湧き出た。周囲の意見を振り払い柔道部を退部。当時“ロン毛の柔道部員”だった伊原だが、覚悟の印として自宅でバリカンを使って丸刈りに。あまりの唐突な思い切りに、次の日は「やばい奴(やつ)が来た、みたいな感じでしたね」と振り返るように、学校中が大騒ぎになるほどだった。決意の丸刈りで2年に上がる直前、当時の野球部の顧問で現在校長を務めている河内校長の元へと向かった。
1度目は顧問に受け入れてもらえなかった。半端な道を歩ませないという恩師の思いでもあった。それでも諦めず2日続けて野球部の門をたたく。その熱意が受け入れられ顧問に言われた「一生、野球を辞めないこと」を約束し、再び野球の道に戻ってきた。この言葉があったからこそ以降は野球を辞めることはなかった。冬の練習から参加することに「周りと差があるんじゃないか」と不安もあったが、ストイックに一人で練習に励むきっかけともなった。
自身も気づかぬうちに柔道部で鍛えられた筋肉が野球に生かされ、打力でも投球でもパワーアップ。主に投手だが器用すぎることから、体を使って投げる練習のために外野手も兼任し、エースと呼ばれるまでに至った。紆余(うよ)曲折を経て進んできた伊原に、プロ入りへの強い原動力となる転機が訪れる。
◆アラカルト
名前 伊原陵人(いはら・たかと)
生まれ 2000年8月7日生まれ。奈良県橿原市出身
家族構成 父、母、兄
サイズ 170センチ、77キロ
血液型 B
投打 左投げ左打ち。最速149キロ。球種はカットボール、スライダー、フォーク、カーブ、ツーシーム
球歴 晩成小1年から晩成フレンズで野球を始め、八木中では軟式野球部に所属。智弁学園では3年時にエースを務めてセンバツ3回戦に進出。大商大では1年春からリーグ戦に登板。中1の一年間は野球をやりたくなくて柔道部に入っていた
地元 DeNA・三浦監督と同じ橿原市出身
甲子園 幼少期に現地で観戦経験あり「すごい熱気だった」
足 50メートル走6秒3
遠投 100メートル
趣味 アニメを見ること。戦闘系が好き
特技 人を笑わすことは好き
好きな芸能人 前は石原さとみが好きだった。大学では永野芽郁に