連載 怪物・江川卓伝〜川口和久が憧れ続けた投球スタイル(後編) 1980年代の広島といえば、北別府学、大野豊、川口和久の三本柱に、抑えに"炎のストッパー"津田恒美と、磐石な投手陣を形成していた。なかでも大野、川口の"速球派レフティーコンビ"…

連載 怪物・江川卓伝〜川口和久が憧れ続けた投球スタイル(後編)

 1980年代の広島といえば、北別府学、大野豊、川口和久の三本柱に、抑えに"炎のストッパー"津田恒美と、磐石な投手陣を形成していた。なかでも大野、川口の"速球派レフティーコンビ"は、他球団にとっては脅威だった。


95年から4年間巨人でプレーし、98年に現役を引退した川口和久

 photo by Kyodo News

【指の力はチーム一だった】

 ストレートは投手にとっての基本であり、速ければそれだけで武器になる。以前、江川卓に取材した際、リリースの話になった。ほかのピッチャーと違って、江川は手のひらで滑らせ押し出すように投げていたと語っていた。それは回転数を上げるために、高校時代から意識してやっていたという。

 はたして、そんな投げ方ができるものなのかいつも疑問に思っていた。江川と同世代のピッチャーに聞いても、「指にかかる瞬間を大切にしている」「腕の振りの軌道とボールに与える回転が真っすぐになるように集中している」という答えはあっても、誰も手のひらで滑らせて押し出すように投げるとは言わない。

 江川独特のリリースなのかと思っていたが、川口に尋ねると「よくわかります」と即答して、順序立てて話してくれた。

「ストレートの威力はもちろん自信がありましたし、高めのボール球もよく振ってくれました。回転数はかなり高かったと思います。ボールを測ると初速と終速があるのですが、終速が速いっていうことが重要なんです。僕は終速が遅くなると、高めの球でもカーンと打たれ始めるんですよ。それがバロメーターだったので、高めを打たれ出したら『もう代えてもらっていいな』と思っていました」

 回転数を上げるにはスピン量を増やす必要があり、リリース時に何か意識していたことがあるのか、川口に尋ねてみた。

「昔、指の力を測る機械がカープにあったんです。要するに、ボールを投げる時って人差し指と中指と親指にぐっと力を入れるんですが、その三本の指をグッと力を入れると数字がバーっとはじき出される機械があったんですよ。僕はカープのなかで一番の数字が出ました。ピンチ力っていうんですが、握力は45キロくらいしかないんですけど、指の力はチームで一番強かった。

 だから、よく爪が割れていました。中指の爪がしょっちゅうパリンと割れるんです。スピンを効かせるために、爪が割れたんだと思っています。やっぱり指先の力によって回転数が落ちないようにすれば、バッターが空振りしてくれるわけですよ。江川さんもランナーを背負った時っていうのは、回転数が落ちないボールを意識して投げていたと、僕はそう思っています」

【手のひらの使い方が重要】

 初速と終速の差が小さいほど、ボールの落下幅が小さく、伸びているように見えると思っている人は多かったのではないだろうか。ただ実際は、初速と終速の差というより回転数がボールの伸びと起因している。ストレートにきれいなバックスピンの回転を与えれば揚力が加わり、浮き上がってくるように見えるというわけだ。

「江川さんの言っていることって、すごくよくわかるんです。ボールを投げる際の一連の動きのなかで、指を含めて手のひらの使い方がものすごく重要になってきます。ボールをリリースする時、最初から指が立っているわけじゃないんですよ。手のひらが上を向いている状態から、手首が立って親指の付け根が前方向にいって、そこから指先でボールを掻くわけです。指の力でグッとボールを押し込むわけだから、当然リリースは前になるから打者は速く感じるはずなんです。だから、手首が硬いと打者寄りでリリースできなくなるので、バッターはスピードを感じづらくなる」

 カーブを投げる場合、手首を寝かせすぎてもよくなく、ある程度立っていないとボールはうまく切れない。だから、打者に癖を見破られないようにするため、リリースポイントを一定にする必要があった。

「社会人のデュプロ時代もカーブは投げていましたけど、そこまでの自己分析力はなかったですね。広島に入った時のピッチングコーチの大石(清)さんに、まず手のひらのことを言われました。『親指と小指の付け根のところをしっかり前に出しなさい』って教わったんです。そうすることでリリースが打者寄りになり、ボールを見る時間が短くなるから打ちづらくなると。

 とにかく大石さんには『リリースポイントをもっともっと前にしろ』って、よく言われていましたね。そのためには柔軟性をつけないといけないので、開脚して胸が地面につく体操を30分ほどやっていましたね。やっぱり体が硬く、肩の可動域が狭いと、ケガのリスクは高くなります。そういう意識を持って二軍戦で投げながら、だんだんと自信がついてきましたね」

 のちに湯舟敏朗、野田浩司、中込伸、猪俣隆、葛西稔、仲田幸司、田村勤らを育てた名コーチの大石によって、川口は素質を開花させ、プロ入り3年目に15勝を挙げ、主戦投手となっていく。

「江川さんもそうだったんですけど、たとえばツーアウト三塁とか、ワンアウト二、三塁とかの時は、三振をとりにいきました。得点圏にランナーがいる時は、そういう姿勢でいました。全盛期の頃は、三振を狙いにいった時はほとんどとれましたね」

 川口は奪三振王のタイトルを3回(87年、89年、91年)受賞しており、91年には205イニングを投げて230個の三振を奪っている。

 そして最後に、川口はこんなエピソードを明かしてくれた。

「現役時代、アディダスのスパイクを履いていたのは江川さんだけで、めちゃくちゃ憧れましたね。だから、今でもアディダスは好きですね。アディダスって三本線じゃないですか。川口の"川"の字も三本線。だからアディダスの製品を見ると、すぐ買っちゃうんです。僕のなかでの江川さんって、力のあるピッチャー、そしてアディダスを履いているカッコいい
ピッチャーなんです」

 川口のピッチング原型は、江川への憧憬から生まれたものである。憧れこそ本人の成長を著しく促すものであると、あらためて川口から教えられた気がする。

(文中敬称略)

江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している