セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史権藤博が明かす1イニング限定の守護神が誕生するまで(後編)前編:権藤博は近鉄の投手コーチ時代に監督の仰木彬と対立はこちら>> 1997年、権藤博は横浜(現・DeNA)のバッテリーチーフコーチに就任した…
セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
権藤博が明かす1イニング限定の守護神が誕生するまで(後編)
前編:権藤博は近鉄の投手コーチ時代に監督の仰木彬と対立はこちら>>
1997年、権藤博は横浜(現・DeNA)のバッテリーチーフコーチに就任した。当時の監督である大矢明彦は、バッテリーコーチから昇格して2年目。現役時代は長くヤクルトの正捕手を務めて優勝経験もあり、93年からのコーチ時代には谷繁元信を一人前の捕手に育て上げていた。
それまで投手の起用法をめぐって、仕えた監督と衝突しがちだった権藤。担当コーチとして、主力投手をつぶさず、若い投手を育てていく──。そのために「こうしましょう」と進言しても、なかなか受け入れられなかった。はたして、自身より9歳下の指揮官との関係性はどうだったのか。御年85歳の権藤に聞く。
98年、抑えの佐々木主浩(写真左)を中心に強力リリーフ陣を完成させ横浜を日本一に導いた権藤博
photo by Sankei Visual
【投手コーチから監督へ】
「大矢は何も言わなかったです。任せるというか、私に敬意を表したんじゃないですか。年齢も私より若いですし。それに、ベイスターズは最初のスタートでつまずいて弱かった。『もう思い切ってやりましょう』って言ったら、『そうしましょう』と。それで『よし、これいきましょう。これいきましょう』って言っている間に、ふたりでできあがってうまくいきましたね」
97年の横浜は4月に8勝14敗と負け越し、最下位からスタートした。それでも、抑えの佐々木主浩が盤石の投手陣。先発は野村弘樹を軸に三浦大輔、戸叶尚が成長し、ドラフト1位新人の川村丈夫も即戦力で機能。中距離打者でつなぐ"マシンガン打線"と噛み合い、8月に20勝6敗と快進撃を見せる。一時は首位のヤクルトに迫りつつ、7年ぶりのAクラスとなる2位に浮上した。
「たしかにかなり追い上げましたけど、所詮は2ゲーム差まで迫っただけで、チーム力もいっぱいいっぱいでしたからね。結局は大差をつけられて負けているわけですし、優勝したヤクルトを冷やかすぐらいが精一杯でした。だから次の年ですよ。監督になった時、これなら戦えると思いました」
10月6日、2年契約満了に伴い、大矢は監督を退任。その後、後任が決まらないまま秋季練習に入ると、同25日、権藤の監督就任が発表された。ほかの監督候補の名前も挙がっていたから意外だったというが、11月に入ると権藤自ら戦力補強に動く。
「その年、戸叶と福盛(和男)、横山(道哉)あたりの若いピッチャーが出てきてね、盛田(幸妃)の出番がなくなってきたんですよ。で、これは盛田のためにもトレードに出そうと。ただし、ピッチャーは要らない。盛田に失礼だし、プライドもあるから。それで私が前にいたチームに当たったら、近鉄と話がまとまって。外野手の中根(仁)と換えたんです」
プロ10年目の盛田は、96年にリリーフから先発に転向。97年は若手が台頭するなか、右ヒジ故障もあって登板機会が減っていた。だが、近鉄では中継ぎの佐野慈紀がトミー・ジョン手術を受けただけに、実績十分の盛田は願ってもない存在だった。一方、横浜の外野陣は主力と控えの差が大きく、中根の加入によって競争意識が高まることになる。
「中根が入ってきたおかげで、佐伯(貴弘)はライトのポジションを争うようになる。ピッチャーは盛田がいなくなったことで、島田(直也)と五十嵐(英樹)の生かし方がはっきりして、若いのは出番が増える。盛田は盛田で、向こうでしっかり使われる。いいトレードになって、私自身、よかったと思います」
【中継ぎのローテーションの確立】
そのオフの「いいトレード」はもうひとつあり、内野手・永池恭男との交換で巨人から左腕の阿波野秀幸を獲得。近鉄時代にエースだった阿波野は、88年から2年間、権藤の指導を受けている。95年に移籍した巨人では3年間、ほぼ二軍暮らしだったが、権藤はその力量を熟知。プロ12年目、34歳になるベテランを貴重な戦力として見ていた。
「阿波野は全盛期ほどの球威はなかったですけど、1イニング投げさせたら、それはもうバリバリの力が残ってましたからね。そういう点では、中継ぎのなかでは別格でした」
監督就任にあたり、抑えは「原則1イニング限定」と決めた権藤。97年の佐々木は49試合で60回と"イニングまたぎ"もよくあったが、右ヒジの手術歴と腰の不安を考慮しての「1イニング」だった。その点、98年、佐々木の前を投げる投手は基本的に連投がなく、「中継ぎのローテーション」と言われた。当時としては画期的だったが、これも故障防止のためだったのか。
「あれはローテーションがあるように言われただけで、もう選手には言ってるわけですよ。どこのチームも大体、抑えたピッチャーがすぐ次の日もいくんですけど、私はそうじゃない。『今日抑えたら、明日もいく』って選手が言ってたら、『おまえはね、2日も続けて抑えれるほど、すごいピッチャーじゃない』って。だから『おまえが抑えたら、今度はこっちがいくんだ』と」
システムとして「中継ぎのローテーション」をつくったわけではなかった。連投させない、ということは結果的に故障防止につながったのかもしれないが、権藤の口ぶりから、その意図は伝わってこない。
「私の考えは、2日も3日も続けていくのは抑えであって、中継ぎはね、ひとりが1日抑えたら次の日は別のピッチャーだったんです。そうすると、『何でオレじゃない?』みたいな顔をする選手もいるわけですよ。そしたら『2日も続けて抑えられるんだったら、大魔神だ。それだったら、おまえが最後をやってるんだ』って言うんです。
そのかわり、やられたらこう言うんですよ。『おまえは2日も続けてやられるほどヘボじゃない』って言って、やられたらすぐ次の日にいかすんです。『おまえはそんなヤワなピッチャーじゃない。いけ!』って。で、抑えるでしょ? 明日もオレだな、と思ってるところに、『そこまで力のあるピッチャーじゃない』って言うわけ。そうやって中継ぎができあったんです」
【監督が一番ラクだった】
抑えたときには連投させず、打たれて失敗したときには連投させる。ローテーションというシステムではなかったことが、よりはっきりと語られた。たしかに、失敗を取り返すためにもすぐ投げたいという投手は少なくなく、すぐ起用する監督も珍しくはない。だが、やはり投手とすれば、抑えたときほどすぐ投げたいものなのではないか。
「それはそうですよ。でも、私はいかせない。だから実際、別のピッチャーがいったら『えっ? オレじゃないのか。あいつがいくのか。あいつがいくなら今度はオレだぞ』って思っていたはずなんですよ。五十嵐にしても、島田にしてもね。そうこうするうちにチームが先頭を走り始めましたから、『あいつが抑えたら今度はオレが抑える』っていう思いでみんなやったでしょうね」
お互いがモチベーターになり、各投手とも一段と気持ちが入って、ブルペンでいい準備ができてマウンドにいける──。抑えた投手が次もいったら、残る投手のモチベーションはそこまで上がりそうにない。
「ブルペンのなかで競争原理が働いたと思うんです。あいつらにもプライドみたいなものがあったでしょうしね。だから98年の横浜に限って言えば、大魔神がいなかったらもちろんダメですけど、その前がいなかったら大魔神を使えないですもん。そういう点では、中継ぎがよく頑張ってくれて、あのスーパー大魔神が誕生して、優勝できたんだと思います」
周りから見れば「中継ぎのローテーション」だった起用法には、権藤の投手指導経験が凝縮されていた。それはまた、監督と衝突しがちだったコーチ自らが監督になって、実現したものでもあっただろう。
「いちばんラクでした、監督は。『こうしましょう』って言う必要ないですから。そのかわり、ピッチングコーチには必ず言ってましたよ。『どうする?』って。で、『どうしましょう』って言ったら、『じゃあ、オレが決めるぞ』と。それでやられたらやり返すつもりでいて、またやられたら『責任取るのは監督で、やるのは選手』と。優勝するまでずっと言い続けていました」
(文中敬称略)
権藤博(ごんどう・ひろし)/1938年12月2日生まれ。佐賀県出身。鳥栖高からブリヂストンタイヤに進み、61年中日に入団。1年目から35勝を挙げ、最多勝、新人王、沢村賞を獲得。翌年も30勝をマークし、2年連続最多勝に輝いた。だが「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語が生まれるなど連日の登板により肩を痛め、31歳の若さで現役を引退。73年より中日の投手コーチを務め、リーグ制覇に貢献。その後、近鉄、ダイエーを経て、横浜のコーチに就任。98年に横浜の監督となり、チームを38年ぶりのリーグ制覇、日本一へと導いた。監督退任後の2001年からは、野球解説者として活躍。12年には中日の投手コーチに再び就任。17年にはWBC日本代表のコーチも務めた