【第17回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」 柔道仕込みの受け身・関節・絞め技と、ボディビルで鍛えた肉体。それらを武器に18歳でプロレスデビュー。それが、国際プロレスで「マットの魔術師」と呼ばれたマイティ井上だ。ヨーロッパ…

【第17回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 柔道仕込みの受け身・関節・絞め技と、ボディビルで鍛えた肉体。それらを武器に18歳でプロレスデビュー。それが、国際プロレスで「マットの魔術師」と呼ばれたマイティ井上だ。ヨーロッパ遠征でその実力が開花すると、グレート草津やラッシャー木村を追い抜いてIWA世界ヘビー級王座を奪い、タッグマッチでも数々のタイトルを獲得。ときにはタッグパートナーとしてともに戦いながら、多くのことを学んできたアニマル浜口が井上の強さの秘密、そしてプロレスラーとしての魅力を説く。

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国際プロレスでマイティ井上は異彩を放っていた

マットの魔術師・マイティ井上(1)

「マイティ井上さんと寺西勇さんは、僕にとってもっとも身近な先輩、という感じでしたね。一緒に戦わせていただいていましたし、おふたりとも僕と背格好がほとんど同じでしょ(井上=175cm・105kg、寺西=175cm・100kg、浜口=178cm・103kg)。だから入門したときからずっと見続けて、いいところを盗みながら学ばせていただきました」

 アニマル浜口は、今もマイティ井上、そして寺西勇への感謝を忘れていない。

「特に井上さんは年齢こそ2歳年下ですけど、ナニワトレーニングセンターの先輩で、僕と同じくナニワの荻原稔会長から国際プロレスの吉原功(よしはら・いさお)社長を紹介されてプロレス入りされました。僕がナニワでトレーニングするようになる前に国際プロレスに入門しているので、すれ違いでしたけど。自分と同じような道を辿った先輩がプロレスラーとしてデビューし、リングに上がって活躍されていたわけですから、勇気が湧いたというか、『自分もがんばればプロレスラーになれる』という気持ちになりました」

『大阪学院大学高等学校を卒業後、国際プロレスに入門』。マイティ井上――本名・井上末雄(いのうえ・すえお)のプロフィールにはそう書かれることも多いが、事実は異なり、本人は「本当は高校中退なんだよ」と語っている(ベースボール・マガジン社『忘れじの国際プロレス』より一部引用)。

「とにかくプロレスが好きで、プロレスをやりたくてね。俺が子どものころは力道山全盛期だったから。親父に力道山の試合に連れていってもらって、生で観て『スゲェ』と思ってからずっとですよ。それで、ナニワトレーニングセンターで身体を鍛えるようになって、荻原会長に『プロレスラーになりたい!』って言っていたわけですよ。

 そうしたら、会長が『吉原さんに話してやるから』となったんだけど、国際プロレスは1966年の10月にもう旗揚げしているでしょ。高校卒業まで待っていたら1968年の春になっちゃって、もう入門テストとかやっているかどうかわからない。そう思って、高校2年の終わりに中退したんです。

 ところが1年後、高校から『卒業式に来てくれ』と連絡があってね。『プロレスでがんばっているから、卒業ということにしてあげる』と。それで、卒業証書をもらったんだけど」

 ギスギスした世知(せち)辛い今日から見れば、ほのぼのとした大らかな時代だった、ということか。



マイティ井上との思い出を懐かしそうに語るアニマル浜口

 1967年3月25日、井上はナニワトレーニングセンター仲間であり、ヨーロッパやアメリカ、カナダで日本人ヒールとして暴れていた藤井康行とともに国際プロレスに入門。同じくボディビル界からスカウトされ、前年11月に入門していた小林省三――のちのストロング小林とともに、先輩のマティ鈴木に鍛えあげられた。

「マティ鈴木さんというのは、ヒロ・マツダさんの日体荏原(えばら)高校の後輩でしてね。吉原社長と一緒に日本プロレスをやめて、国際プロレスを旗揚げされた方です。井上さんは相当、みなさんに厳しく指導されたでしょうね」

 浜口が想うように、そこがマイティ井上のプロレスラーとしての原点なのかもしれない。

 高校で柔道に打ち込んでいた井上は、入門前から受け身には自信があり、同年7月21日、18歳ながら名古屋・金山体育館でデビューを飾った。対戦相手は仙台強(せんだい・つよし)――のちの大剛鉄之助(だいごう・てつのすけ)である。

 前座から中堅へと着実に成長していった井上は、1970年8月、ストロング小林とともにヨーロッパ遠征に出発。その途中、国際プロレスのビッグイベント出場のために一時帰国したことはあったが、1972年10月まで2年以上にわたってヨーロッパ各地を転戦した。

 アニマル浜口は「後輩の僕が言うのもなんですが」と前置きしながらこう語る。

「帰国されたときの井上さんは、ひと皮もふた皮もむけていました。もともと柔道をやられていたので関節・絞め技が得意でしたが、ヨーロッパでそれがさらに磨かれたんでしょう。

 国際プロレスのリングでも活躍したカール・ゴッチやビル・ロビンソンが修行した、イギリスの「蛇の穴(スネーク・ピット)」と呼ばれるビリー・ライレー・ジム。あそこが掲げている「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」――いわゆるサブミッション(極め技・きめわざ)が伝統としてヨーロッパにはありますからね。そこで理にかなった技を身につけられたんでしょう。しかも、イギリスだけでなく、ドイツやフランスなどヨーロッパ各地を回って、それぞれの空気を肌で感じてきたわけですからね」

(つづく)
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