聖カタリナ・浮田宏行監督インタビュー(前編) 就任からわずか1年半で甲子園出場を果たし、2年連続でエースをプロ野球に送り出した監督がいる。名門・松山商業から創価大学を経て、社会人野球のプリンスホテルでプレーした浮田宏行氏は、現役を引退してか…
聖カタリナ・浮田宏行監督インタビュー(前編)
就任からわずか1年半で甲子園出場を果たし、2年連続でエースをプロ野球に送り出した監督がいる。名門・松山商業から創価大学を経て、社会人野球のプリンスホテルでプレーした浮田宏行氏は、現役を引退してからは会社経営に専念していたため、指導者としての経験はほとんどない。
しかし、2023年2月に聖カタリナ学園の監督になると、部内暴力で揺れ動いたチームを甲子園に導き、勝利と育成の両方で成果を残した。なぜそんなことが実現できたのか。
監督就任わずか1年間で聖カタリナを甲子園へと導いた浮田宏行氏
photo by Sugino Ichiro
【会社経営で培ったノウハウ】
浮田監督は「指導者としての経験が乏しいことはデメリットではなかった」と言う。
「自分が高校野球の監督になるとは思っていませんでした。しかし、長くテレビの解説者として関わってきましたので、監督や部長など指導者との接点がありました。そのため、野球の変化に対する違和感はありませんでした」
浮田監督が高校球児だった頃、高校野球の強豪校と言えば、カリスマ性のある監督による猛練習と厳しい上下関係は当たり前だった。30年以上の時を経て、指導の方法も選手の気質も大きく変わっている。
「あの時代にはあの時代のやり方がありました。聖カタリナ学園というのは、まだ野球部ができてから日が浅くて、監督の考え方や指導法を押しつけすぎると選手は反発するだろうなと思っていました」
2022年5月に部内暴力が発覚し、出場停止処分も受けて、チームは空中分解していた。指導者不在の時期もあり、立て直しのために招聘されたのが浮田監督だったのだ。
「中途半端な形で高校野球の指導をするわけにいきません。経営者から教育の世界に入るにあたって、いろいろな人に相談しました。生活はガラリと変わるから家族の理解を得ないといけないし、会社を経営していたのでスタッフのことも考えないといけない。ただ、聖カタリナ学園の野球部には不祥事があり、どん底の状態でした。私が関わることで上げていくしかないと思いました。怖いものはありませんでした」
しかし、寮生活の乱れから端を発したチーム内の問題は、簡単に解決することはできない。
「2023年2月1日に選手たちと保護者に会いました。校長に紹介された時には、みんなが『これからどうなるんだろうか』という不安そうな顔をしていたことをよく覚えています」
選手や保護者にとっても、監督にとっても不安含みのスタートだった。
「不祥事の影響で、指導者との信頼関係はありませんでした。彼らは彼らなりに自立しているというか、『勝手にやる』という雰囲気でしたね。私は『地域に愛される野球部になろう』と言いました。掃除や整理整頓、学校での行動、身だしなみなどをきちんとしようと。だた、そういうことを急に言われたことで、選手たちがざわついたというか、反発した部分があったと思います。そんななかで、指導者的な役割をしなければいけなかったキャプテンは本当に大変だったと思います」
浮田監督に指導者としての経験はないが、会社経営で培ったコミュニケーションとチームづくりのノウハウがあった。
「もともとポテンシャルの高い選手が県外からも集まってきていました。大事なのはチームとしてまとまることだったんですけど、ひとつになれそうなところでつまずいてしまっていました。私は長く会社経営をしてきたので、チームを会社になぞらえて、選手たちにはいろいろな話をしました。チーム力とは何か? 組織力とはどういうものか? そういうことを選手たちに話をしました」
【チームを変えたエースの変身】
チーム競技である以上、大事なのは個人の成績ではなく組織の勝利だ。
「全員が同じ方向を見ていないとチームがうまくいくはずがない。『誰かひとりでも反対を向いとったらいかん』と話しました」
浮田監督が指揮官として初めて臨んだ春季大会は、中予地区代表決定戦で松山学院に敗れた。3年生にとって最後の大会となる夏の愛媛大会まで3カ月ほどしかなかった。
「強豪の松山学院にタイブレークの末に敗れました。公式戦でいきなり敗退したことで、チームがバラバラになりかけたのは事実です。自己中心的なプレーが多くて、いい結果が出ないときにはグラブやバットを投げたりすることもありました。そういうとき時は冷静に注意していきましたが、ときには選手とぶつかることもありました。自分の野球人生を振り返ったら、そんな態度は考えられませんでしたから」
浮田監督が目指すチームの形を選手たちにプレゼンし、そこに向かっていこうと諭した。しかし、指導者に対して不信感の残る選手たちの心をつかむのは容易ではなかった。そんななかで立ち上がったのがエースの河内康介だった。
「『いい成績を残したい』『自分さえよければ......』というチームのなかで、ひとり変わったのがエースの河内でした。春季大会で自分が出した押し出しのフォアボールで負けたこともあって、最後の夏に向けて覚悟を決めたように見えました。チームのために野球をやろうと思ってくれたようです。こちらに歩み寄ってくれました」
エースの変化を感じとった浮田監督は、コミュニケーションにも変化を加えた。
「まず私が河内に言いたいことを伝えて、彼の言葉で選手たちに話してもらうようにしました。そうしたらチームにまとまりが生まれ、河内もエースとしてものすごく成長してくれました。そのうちに、プロ野球のスカウトの評価もどんどん上がっていきました。もともとあった能力と、プロの評価が相乗効果となって5、6月以降にものすごく伸びましたね」
聖カタリナはその夏の愛媛大会、準決勝で川之江に敗れ、甲子園に出ることはできなかった。だが、150キロの速球を武器にチームをベスト4に導いた河内はその秋のドラフト会議でオリックス・バファローズから2位指名を受けた。高校生の投手の中では最高の順位だった。
「チームとしての、選手個人個人の成長を感じた数カ月でした」
新監督と先輩たちとの真剣勝負を間近で見ていた後輩たちは、翌年の夏、ついに奇跡を起こすのだった。
つづく>>