丸山翔大(しょうた)は、2020年のドラフトで西日本工業大から育成4位でヤクルトに入団。1年目はプロの体づくりに励み、2年目は一軍の春季キャンプに参加。3年目の春に支配下登録されると、4年目の今季は一軍で27試合に登板。194センチの長身…
丸山翔大(しょうた)は、2020年のドラフトで西日本工業大から育成4位でヤクルトに入団。1年目はプロの体づくりに励み、2年目は一軍の春季キャンプに参加。3年目の春に支配下登録されると、4年目の今季は一軍で27試合に登板。194センチの長身から投げ下ろす真っすぐ、フォークを武器に1勝5ホールド、防御率0.57をマーク。被本塁打はゼロだった。
小野寺力投手コーチは、丸山の成長を1年目から見守り続けてきたひとりだ。
「今の自分に何が足りないのかを、常に考えています。プロに入った時から『負けたくない』という気持ちが強く、不器用ですけど、努力家で『一生懸命やればここまでなれる』という、いい模範の選手だと思います」
育成4位という厳しいスタートから、今のポジションをいかにしてつかみ取ったのか。丸山に、この4年間を振り返ってもらった。
プロ4年目の今季、27試合に登板し1勝5ホールド、防御率0.57の好成績を挙げたヤクルト・丸山翔大
photo by Sankei Visual
【大ベテランから学んだこと】
1年目の体重は、身長192センチ(当時)に対して74キロ。真っすぐの球速は150キロを計測したが、「ものすごく体が細かったので」(丸山)と、トレーナーからのメニューをもとに、シーズンを投げきる体づくりに励んだ。
「1イニング投げたら、2イニング目は疲れて投げられないくらいスピードが落ちてしまうことがありました。そのなかで、順調に体は大きくなったと思います」
2年目には初めて一軍の春季キャンプに参加。ふたりのベテラン選手の野球に取り組む姿勢に、大きな影響を受けた。
「青木(宣親)さんや石川(雅規)さんが誰よりも早く球場に来て、準備をしていたんです。自分の体を動かして、体の状態を知ってから整えていた。現役をあそこまでやられている方は、(キャンプでやることは)コンディションを整える程度のトレーニングだけだと思っていたのですが、まったく違っていました。最初はその準備している姿を見て学び、キャンプ終盤には質問できるようになって、そこから練習をする前の準備を大切にするようになりました。日によって自分の体の動きやコンディションは違うので、今はそれを知る意味で朝のストレッチやエクササイズを続けています」
ピッチングに関しては先発の役割を与えられたが、「自分が考えていたよりうまくいかなかった」と苦しんだ。
「先発ピッチャーって、ずっと全力で投げることはなくて、『ここぞ!』という時にギアを上げるじゃないですか。自分の場合、長い回を投げるために力を抑えながらやって、いざギアを上げるとなった場面でそれができず、さらにスピードを出したくても出ない状態になっていたんです」
最速は147キロ、平均球速も140キロ前後まで落ちてしまったという。
「じゃあ『最初から全力で』とやってみたのですが、初回から自分の一番速い球を相手に見せてしまうので、2巡目になると打者が慣れてきます。逆に自分は全力で投げているので、徐々にスピードが落ちてくる。2巡目からどう抑えていいのかわからなくなることもありました。先発って、試合の流れに任せてスイスイ投げることもできるし、ここだという場面ではギアを上げて抑えにいく。今はブルペンで(先発投手は)『すげぇ』と思いながら見ています(笑)」
【中継ぎ転向で育成から支配下へ】
丸山にとって3年目となる2023年は、重要なシーズンとなった。
「春のキャンプでは先発という話だったので、去年みたいな感じだったら、今年で終わるんだろうなと。正直、先発では支配下に上がれるイメージが湧きませんでした。そのことをコーチの方に正直に話をさせていただき、そこで中継ぎから入ろうとなった結果、4月29日に支配下登録させてもらうことができました」
その日に一軍昇格し、神宮での阪神戦で初登板を果たすも「緊張して力みまくってしまいました」と、1回2安打2失点とプロの洗礼を浴びた。
「先頭の大山(悠輔)さんに四球を出して、佐藤輝明選手に完璧なホームランを打たれました。中村(悠平)さんはアウトコースに構えたのですが、逆球のインハイの球でした。ファームならファウルをとれたり、打ってこなかったりなんですが、やっぱり一軍のバッターは全然違って、『オレ、これからやっていけんのかな......』って」
最終的には22試合に登板し、勝敗はつかず、防御率4.05でシーズンを終えた。オフには田口麗斗の自主トレに参加。一軍で得た経験をもとに、今シーズンへの飛躍へとつなげるのだった。
【二軍抹消中に課題を克服】
今季、二度の二軍降格を味わったが、そのつど、戸田球場で課題と向き合い、練習を重ねる姿が強く印象に残った。春には真っすぐに次ぐ割合だったスライダーを投げない時期があり、丸山はその理由について明かした。
「その時期のスライダーって、腕が緩みがちだったんです。腕が緩むと打者に(球種が)わかってしまいます、何よりフォームが横ぶりになってしまい、真っすぐが抜けたり、引っかかったりして、フォークもゾーンから外れていくようになってしまったんです。ひとまずスライダーを休ませれば、真っすぐ、フォーク、カーブと全部タテのボールになるので、まずそこを安定させようという意図でした」
ただ「スライダーを消すのもよくない」と、タテの動きのなかで使えないかと試行錯誤を重ねた。
「ストレートと同じくらい腕を振って、スライダーを投げる練習をしました。曲がらずに"ロケット"のようにスーッと真っすぐいってしまうこともありましたが、腕を振ることが第一なので、それでいいやとやり続けました。結果的に、後半からまたスライダーを使えるようになったのでよかったです」
二度目の抹消中は、フォークに重点を置いた練習を続けたこともあった。
「フォークは落差の大きいのと小さいのがあって、試合では小さいのをメインに使っていました。ある程度ゾーンにいって、ゴロ率が高いので、よくも悪くも便利なボールになっていました。ただ、中継ぎでは『ここはバットに当てさせたくない』という場面が絶対にあるので、小さいフォークはバットに当たりやすく、ヒットゾーンに飛ぶ可能性もあるし、何が起こるかわからない。そこでもうひとつのフォーク、空振りがとれるフォークを覚えようと。その感覚をつかむために、キャッチボールから(フォークを)投げていました。8月後半から9月に三振の数が増えたのは、しっかり腕を振ってフォークを投げられたことが大きかったですね」
そして丸山は「自分でいいものをつかんだのって、8月の終わりくらいからなんです」と話した。手応えを感じた試合について聞くと、少し考えてから答えた。
「それこそ、甲子園で高梨(裕稔)さんが先発した9月15日の阪神戦ですかね。高梨さんのあとを受けて8回から投げたのですが、真っすぐ、スライダー、カーブでストライクが取れず、フォークだけは大丈夫だったんです。キャッチャーは(内山)壮真で『入らないもんは仕方ないですよね。腹くくってフォークで勝負しましょう』と。自分のなかでは真っすぐも投げたほうがいいかなと迷いはありましたが、『わかった』と」
結果は四球をひとつ出したが、「何とか粘ることができた」と無失点に抑えた。
「今年投げたなかで一番悪い日でしたが、そのなかでどうやってバッターと勝負するのか。悪くてもこういう抑え方ができる、こういう考え方もあるんだという発見があったというか......そういう試合になりました」
すばらしい数字で今シーズンを終えたが、満足度について尋ねると「全然ですね」と言った。
「シーズン前に立てた目標、開幕一軍をつかみ取って、シーズンを投げきり、55試合に登板する......この目標を何ひとつ達成できなかった。ただ後半に入って、試合前の体の準備もそうですが、考え方の準備も『これだな』というのがはっきりしてきたので、そこはいい結果につながりました。考え方の準備の内容については内緒です(笑)」
【大手メーカーの内定を蹴ってプロ入りした過去】
今年果たせなかった目標は来年へ持ち越しとなったが、そのためにも開幕一軍は大前提だ。
「そこからしっかりと、戦力として1年間一軍にいることですね。今年はホールドのつく場面で投げさせてもらうこともあったので、やっぱりそこで投げたいという思いはあります。まずは自分が任された場所でしっかり抑えていくことが第一歩だと思うので、体をもっと大きくしていきたいですね。今は1年目から16キロ増えて90キロになりましたが、まだまだ細いんで(笑)」
今から4年前、丸山は地元の大手自動車メーカーへの就職が内定していたが、断りを入れてプロ志望届を提出。そしてヤクルトから育成4位で指名を受けた。
「プロ入りが決まった時、大学の監督からは『支配下と育成では条件面で違うからしんどいと思うぞ』と言われました。それをすべてわかったうえで野球を続けると決めた以上、『やるしかない、頑張ろう』と。プロに入ってからは、ドラフト同期に同じ歳のナオ(木澤尚文)、山野(太一)、(元山)飛優(現・西武)、並木(秀尊)がいて、ほかに高卒で入った(古賀)優大、ハセ(長谷川宙輝)、梅野(雄吾/現・中日)、(寺島)成輝(現役引退)がいて、自分だけが背番号3ケタだったことが本当に嫌でした。でもそれが、『絶対に自分もみんなと同じ場所に行ってやるんだ』と強いモチベーションになっていました」
4年前にプロ志望届を提出すると決断したことについては、「まだ始まったばかりなんで」と苦笑いした。
「大学の監督からは、今も『就職したほうがよかった』と言われますし、あの時の決断について話すには、まだまだ早いです。でも10年先、15年先に『野球をやっていてよかった』と思えるようにしていきたいですね」
来年、大きく"翔(はばた)く"ための準備は着々と進んでいる。