2011年に星野仙一氏が楽天監督就任…主砲の山崎武司氏も微妙な立場に 球界屈指の長距離砲として活躍した山崎武司氏(野球評論家)は楽天時代の2011年、プロ25年目のシーズン終盤に引退を勧告された。その年からチームを指揮した星野仙一監督から直…

2011年に星野仙一氏が楽天監督就任…主砲の山崎武司氏も微妙な立場に

 球界屈指の長距離砲として活躍した山崎武司氏(野球評論家)は楽天時代の2011年、プロ25年目のシーズン終盤に引退を勧告された。その年からチームを指揮した星野仙一監督から直接「『引退せぇー』って言われた」という。102試合、打率.229、11本塁打、48打点の成績は楽天での7年間でいずれも最も低い数字。コーチのポストも用意する話もあったが、考えた末に断った。闘将には激怒されたという。

 2009年シーズンで野村克也氏が楽天監督を退任。2010年は前広島監督のマーティ・ブラウン氏が率いた。山崎氏はこの年も主砲として結果を出した。141試合に出場して打率.239、28本塁打、93打点。オールスターゲームにも出場し、第1戦(7月23日、ヤフードーム)では中日・岩瀬仁紀投手から代打アーチ。「6番・一塁」で出場した第2戦(7月24日、ハードオフ新潟)では2回に巨人・東野峻投手からも一発と存在感を放った。

 しかし、楽天は低空飛行が続き、4年ぶりの最下位。ブラウン監督は解任となった。わずか1シーズンで終わったが、山崎氏は「ブラウンにはかわいがってもらいました」と懐かしそうに話す。「外国人特有の考え方、ああ、こんな考え方があるんだっていうのを教えてもらったし、義理と人情に厚い男だったんで大好きな監督1人だった。ちょっと気の毒ではあったんですけどね……」とも口にした。

 翌2011年シーズンからは元中日、阪神監督の星野仙一氏が楽天の指揮官になった。山崎氏にとっては1986年ドラフト2位で愛工大名電から中日入りした時の監督であり、長い下積みを経てプロ10年目に39本でセ・リーグ本塁打王になった時の監督だ。何かにつけて、叱咤激励された監督でもある。「星野さんは中日の時も楽天の時も、俺にはいつも“おい!”って感じで、全体的に厳しかったですけどね」。

シーズン終盤に30打席無安打…星野監督から「引退せぇー」

 2011年3月11日に東日本大震災が発生した。「あの時、俺は(ヤクルト2軍本拠地の)戸田にいたんだけど、立っていられないくらいの地震だった。その後、明石から横浜に入って来た1軍に合流した。野球やるの、やらんの、仙台に帰る、帰らんの大もめだった。結局、その時は帰らなかった。俺のところは名古屋だったけど、家族を(仙台に)残している人はみんな真っ青な顔をしていた。えらいことになったと思いましたよ」。

 結局、開催時期を遅らせて4月12日にセ・パ同時開幕。山崎氏はロッテ戦(QVC)に「4番・一塁」で出場し、4打数1安打1打点で勝利に貢献した。「被災している人たちに逆に勇気づけられた」という。オールスターゲームにはファン投票(一塁手部門)で選出された。「(6月11日の)中日戦で平井(正史投手)のボールをハーフスイングした時に指が滑っちゃって(右手薬指を)骨折したんだけど、何とかオールスターには、と思って治して出た」と振り返る。

 6月12日に抹消されて7月19日に復帰。7月22日(第1戦ナゴヤドーム)からの球宴にギリギリで間に合った。執念で間に合わせた。7月24日の第3戦はKスタ宮城で行われ、パ・リーグの「4番・指名打者」でフル出場。4打数無安打に終わったが、全力プレーでファンの声援に応えた。8月18日の西武戦(西武ドーム)では菊池雄星投手から通算400号。42歳9か月での達成はNPB最遅記録。長い年月をかけて到達した勲章だ。

 だが、この年は102試合、打率.229、11本塁打、48打点の不本意な成績。9月中旬からは大幅に調子を崩した。「30タコ(30打席無安打)とかやっちゃってね、それで(星野)監督にクビを宣告されました。『引退せぇー』って言われました」。いきなり突きつけられた引退の2文字。山崎氏は「監督が言うんだから、もうそれが揺るがないのはわかっている。でも果たして、ここで終わっていいのかなって思った」という。

星野監督からコーチ就任打診も固辞…退団試合で涙「不本意だな」

 元楽天監督の野村克也氏にも電話して事態を報告した。「『お前はそれでいいのか。お前の年でこれだけの成績を挙げてきたんだから、お前が自分で決めろ。星野がどうのこうの言っているとか、そんなことじゃないだろ、自分の意思はどうなんだ』って言われて『まだやりたいです。やれると思います』と答えたら『じゃあ、いろいろあたってみろ』って」。恩師の言葉で吹っ切れた山崎氏は球団に「任意引退ではなく、自由契約にしてください」と申し出たそうだ。

「球団代表には『そんな失礼なことはできない。コーチとして球団に残ってほしい。いずれ監督になるために勉強もしてほしい』と言われたけど『最後のお願いです。自由契約にしてください』と言いました」。この決断に星野監督は激怒していたという。「プンプンに怒っていました。『お前、辞めるって言ったろ!』って。『辞めます。ここのチームは去ります』と言ったら、42歳で首根っこを掴まれました」。

 星野監督も再度、コーチ就任の話をしてきたそうだ。「『将来、監督もやりたいんだろ、じゃあ楽天のコーチをやれ』と言われたけどお断りしました。『(楽天で)7年間にわたって僕は後輩にも厳しく言ってきた。辞めたからといって手の平を返して星野さんの下でコーチをやって、後輩たちに“なんだ”って思われるのは嫌なので退団します』という話をした。まぁ、ちょっとかっこつけちゃったってことですよ」。それで自由契約での退団が決定した。

 10月10日のロッテ戦(Kスタ宮城)が山崎氏の楽天退団試合となった。7回に代打で出場し、吉見祐治投手から中前打を放ったのが楽天での最終打席になった。「最後なのにスタメンではなく、代打だったので、正直“この野郎”って思っていましたけどね。代打で出た時、ロッテのキャッチャーの田中(雅彦)が『ガチ勝負でお願いします』と言ってきたから『おう、望むところだよ』と言って吉見から強烈なセンター前ヒット。あれが(楽天で)最後だったんですよね」。

 試合後、楽天ナインに胴上げされた。涙があふれた。まだまだ楽天で選手としてプレーしたかった。「めちゃくちゃ泣いた。さみしかったし、つらかったし、何で俺がだよって思ってね。そりゃあ、いつかは出て行かなければいけないけど、こんな形はちょっと不本意だなって……。そう思いながら仙台を離れました」。12月になって古巣・中日への復帰が決まった。「やっぱり星野さんを見返したいという気持ちはありましたね」。また新たな闘いが始まった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)