『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載最終話 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、…

『氷上のフェニックス』(小宮良之:著/KADOKAWA)の続編、連載最終話

 岡山で生まれた星野翔平が、幼馴染の福山凌太と切磋琢磨しながら、さまざまな人と出会い、フィギュアスケートを通して成長する物語。恩師である波多野ゆかりとの出会いと別れ、そして膝のケガで追い込まれながら、悲しみもつらさも乗り越えてリンクに立った先にあるものとは――。

 今回の小説連載では、主人公である星野がすでに現役引退後の日々を送っている。膝のケガでリンクを去る決意をしたわけだが、実はくすぶる思いを抱えていた。幼馴染の凌太や橋本結菜と再会する中、心に湧きあがってきた思い...。

「氷の導きがあらんことを」

 再び動き出す、ひとりのフィギュアスケーターの軌跡を辿る。
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最終話

 氷上のフェニックス、再臨

 全日本選手権のフリー。翔平は6分間練習の出番をリンクサイドで待っていた。通路で体を揺らし、軽くジョグしながら、指先まで神経が通うように手を振った。

「10年後の翔平へ」

 前日の夕方、翔平は波多野が遺したダイアリーを読み終えた。

 部屋で一人になって、机に向かって目を通した。ベッドに寝転んで読むものではないと思ったし、何より一人で読みたかった。手紙にはならなかった手紙を読み終えて、当時の波多野と再会した気分になっていた。筆跡の一つひとつに、彼女の気持ちが込められていたからだ。

 ホテルの部屋からは、ちょうど夕焼けで空が赤く染まっている景色が見えていた。

 10年後の今、これを読むとは運命的だった。

「波多野先生は、すべての道筋を予感していたのかもしれない」

 今年で32歳になった翔平は、思わず呟いていた。現役復帰し、再び競技者としてリンクに立っている。全日本まで勝ち上がって、ショートはできすぎの演技で、犠牲も払っていた。

 しかし、波多野に励まされる"錯覚"があった。

「翔平ならできるわよ、信じているから」

 翔平はフリー前日の練習には参加したが、曲かけ練習では氷の具合を確かめただけで、ジャンプは一度も跳ばなかった。

「星野翔平はケガか? 復帰優勝へ向け、不安がよぎる」

 ウェブのスポーツニュースでは、そんな報道も出ていた。

 しかし、滑れない状態ではないことを確認できていた。もっと厳しい条件でも、演技をやり抜いたことはあった。フィジオセラピストの早乙女倫也の施術を受け、痛みは引いていた。

 もっとも、フリー前夜はたとえ完調だったとしても、特有の緊張を覚える。4分間ですべての力を出し尽くせるか。その不安は付きまとう。

 しかし波多野が遺した言葉のおかげで、ぐっすり眠ることができた。平常心を保って、身体も回復した感覚があった。点数競技である以上、残酷なほど結果に表れる。ただ、成功か失敗に執着しても仕方がない。むしろ、執着は体をガチガチに固める。奇跡を起こせるとは思っていないが、それだけの練習は重ねてきた。スケートを裏切ったことだけは一度もない。

「自分だけの演技」

 それだけを追い求める。その先にある領域に、今だったら踏み込めそうだった。ショートでも、その扉は開けていた。

 6分間練習、同じリンクに宇良悟も、飛鳥井陸もいた。3位の宇良とは得点差が開いていたが、2位の陸とは2点差で、何が起きても不思議ではなかった。フリーで十分に逆転はあり得る。

 復帰後、翔平はフリーでは納得のいく滑りをできていなかった。試合勘や体力の不安は尽きない。ネガティブな要素を考えたら劣勢だ。

 しかし、今はそういう自分を俯瞰できた。

「あなたは苦難を乗り越えることで、誰かを幸せにしているんです。本人は大変でしょう。でも、乗り越えるたび、強さを増して、輝きを放っているはずです。

 無責任に期待しすぎ?

 だって、それが私の見込んだ翔平ですから」

 波多野が遺したメッセージを思い出すと、身体の奥に火が付いた。

<波多野先生と目指した最高の風景に辿り着く>

 翔平は静かに奮い立っていた。勝負の先の風景があるはずだった。スケートととことんかかわって、スケーターとして競技の世界に戻ってきたからこそ、その業から解脱する。氷上では何にも縛られない、自由の身になるのだ。

 6分間練習を終えて最終滑走の演技で自分の順番になっていたが、翔平はそこに至るまでの記憶があまりない。空と海の間がないような無心の状態で、氷の一部になったように立っていた。熱気を生み出す会場と、その狭間にいるようだった。

 北欧神話では、氷と炎の裂け目から滴り落ちたしずくから原初の神が生まれたという。

 翔平は意識と無意識の狭間で、スタートポジションをとっていた。奇妙な感覚だった。思い入れのある「オペラ座の怪人」、流れ出したバイオリンの旋律を聴くというよりも肌で感じた。音の匂いがして、目に見えそうで、手触りがあり、味までしそうだった。

 気づいたら、会心の4回転フリップを跳んでいた。それからも体の奥から感情があふれ出し、スケーティングに溶けていった。続く、トリプルアクセル、トリプルアクセル+ダブルアクセルを着氷。加点が大きくつくだろう。そして4回転ルッツも決めた。そこから穏やかだった恋心が激情に変わっていくのだが、その音を一つひとつ拾う。ステップでは身体が導かれるように動いて、観客の胸を打つようなスピンを決めた。

 後半に入っても、疲れを感じない。膝も嘘のように痛みが鎮まったままだった。自分を遮るものは何もない。4回転トーループ+2回転トーループ、4回転トーループ、最後に3回転ループも成功。7本、すべてのジャンプで降りた。

 最後は力尽きているはずなのに、全身に血が巡って、思うままに滑っていた。音に合わせて、何度も小さく跳びはね、ツイズルを入れ、疾走感を出す。観客に、怪人の恋の激情が伝わるだろうか。音が体の中でうねっている。

 そこで初めてスケートを滑った時の風景が、フラッシュバックする。

 7歳の時、青いトレーナーを着ていた。黄色のヘルメットをかぶって、黒い手袋だった。なぜか、まったく寒くなかった。それだけ、滑ることに興奮していたのだろう。氷の上に立って、ちょっと体が前に進むのが楽しかった。自分のものでない力が作用しているようで、勝手に氷に導かれた。何度か、尻もちもついたが、冷たさを感じるのも悪くなかった。

「スケートが好き」

 そう強く感じた。正直、それまでどんな子供だったのか、ほとんど記憶がない。自分の人生は、その日から始まったのだ。

―7歳でスケートの楽しみを知った星野少年に、タイムマシンで会いに行ったら、彼は大人になったあなたになんと言ってくるでしょうか?

 インタビューで、そんな質問を受けたことがあった。

「まだ、やってたんだね!」

 即座に答えたのを覚えている。

 スケートに没頭する運命だった。そうすることが許された人生に感謝した。人に、時代に、導かれる運も与えられていた。

 フィギュアスケーター人生、最後に見えてくる風景はまだ見えない。"たぶん、失速して終わっていくんだろう"と思う。だけど、最後の日まで全力でやるだけだ。

〈この瞬間がずっと続いてほしい〉

 そう思った刹那、既視感を感じた。現役復帰を迷っていた時に見た、夢の風景にそっくりだった。スピンを回り続けるという恐怖だったが、スピンを無事回って、その後に広がった景色は違っていた。

 演技終了直後、大歓声が沸き上がった。ビッグスコアが出るのは間違いない。観客席に目をやると、目を潤ませ、言葉にならない叫びを発し、嗚咽にむせぶ観客の顔もいるようだった。

 リンクサイドでは、鈴木四郎コーチが拳を突き上げ、跳ね上がっていた。冷静に見えるが、熱いところがある。福山凌太は後ろの方で、淡々と拍手を送っていた。

「もう少し喜んでよ」

 翔平は突っ込みたくなるが、凌太の目にうっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。

 橋本結菜も、一般客で来てくれていた。泣きながら、必死に手を叩く姿があった。父、母、妹も3人そろって、同じような仕草で感極まっているのが、「血のつながり」を感じておかしかった。関係者席では、圧倒的な全日本王者になっていたアイスダンスの本村茉優が真剣に見つめる姿も見えた。

「夢ではないのか」

 咄嗟に不安になって、自分の手足があることを確認した。

 フィギュアスケートとは何か?

 それは自分にとって、『側にあるもの』だろう。好き、とかは軽々しくは言えない。とにかくずっとあるもの、あってほしいもの。いや、やっぱり好きなものと言ってしまっていいのか。すでに自分の一部なのだから。

 氷の上に一人立つ翔平は、降臨したフェニックスのように眩い光の中にあった。