「どれくらいかかるかはわからないし、明日にでもなる可能性はある」 6年ぶりに参加する、ジャパンオープンの大会開幕前日──。錦織圭は柔らかな口調で、そう言った。 大会開幕時の、錦織のランキングは212位。ただその数字が、彼の世界での地位を正し…

「どれくらいかかるかはわからないし、明日にでもなる可能性はある」

 6年ぶりに参加する、ジャパンオープンの大会開幕前日──。錦織圭は柔らかな口調で、そう言った。

 大会開幕時の、錦織のランキングは212位。ただその数字が、彼の世界での地位を正しく反映していないことは、本人も周囲も感じてはいる。


6年ぶりのジャパンオープンで輝きを放った錦織圭

 photo by AFLO

 この2年間はケガに苦しめられ、長くツアーを離脱もした。ツアー下部大会郡のATPチャレンジャー序盤で敗れる苦しさも、世界12位のステファノス・チチパス(ギリシャ)に完勝する快感も味わってきた。

 完全復活への予兆は感じつつも、まだ確信には至らない。その点在するパーツが集結し、噛み合う日の訪れを、彼は「明日かもしれない」との希望を抱きながら、待っていた。

 ジャパンオープン初戦の相手は、今になって振り返れば、これ以上望めぬ選手だっただろう。9月28日に36歳を迎えたマリン・チリッチ(クロアチア)は、錦織と同世代のライバルであり、盟友といえる存在だ。

 過去に重ねた対戦は15度で、錦織が9勝6敗とリード。ただ6の敗戦には、錦織が「人生で最も悔いが残る試合」に挙げる、2014年全米オープン決勝も含まれる。長く世界のトップレベルでしのぎを削ったふたりだが、ここ数年はケガと手術を繰り返し、ツアーを離れたのも似た足跡。

 そのチリッチが今年のジャパンオープン前週に、中国開催のATP250大会で驚きの復活優勝を果たした。

「不思議な感じですね、長い付き合いの選手と試合をやるのは。最近は若い選手が増えてきて、復帰してからも知らない選手とやることが多かったですが、こうやってお互い年齢を重ねてもがんばっている相手と戦えるのは、すごく意味がある」

 錦織もそのように、チリッチとの対戦の意義を語った。

「プレーの速さとボールの速さなど、今の若い選手にはないものを持っている」と敬意を表するチリッチの高速ショットは、錦織のなかに眠る懐かしい感覚を呼び戻したかもしれない。

【冗談交じりに「僕が強すぎたのか」】

 実は今大会の開幕前、錦織は過去2大会の自分の傾向として「攻め急ぎ」を挙げていた。

 理由は、復帰後200〜300位の選手との対戦が続くなかで、「自分から早く攻めようと思っていたし、実際に攻めることができる」状況に慣れてきたから。その感覚でツアーレベルの選手と戦った時、焦りにつながったという。

 その反省点を踏まえて入ったチリッチ戦では、序盤は相手の球威にも押され、じっくり戦わざるを得なかった。「自分から、バックでライン(ストレート)に打てていない」ことにもどかしさを覚えながらもしのいだ序盤は、上位レベルに身体を慣らし、自分のテニスを呼び覚ますうえで必要な時間だったのだろう。

「試合後半、特にファイナルセットはしっかり(ラリーを)作れるようなって、バックのダウンザラインだったり、フォアも思いきって打てた。徐々にテニスも上がってきたのを感じました」

 完全復調へのカギを、この試合で錦織は手にしていた。

「ちょっと変な言い方にはなりますが、やっぱ、これが自分なんだなって。やっぱり潜在能力はまだあって、それが急に出るタイミングが今日だったんだなって」

 2回戦のジョーダン・トンプソン(オーストラリア)戦に快勝(6-2、6-3)したあと、錦織が言った。身体の中に点在していたパーツがカチリと噛み合う音を、この日、彼は聞いたのだろう。

 トンプソン戦での錦織は、「若干、イメージを超えてきた。『これが入るんだ?』みたいなショットが、けっこうあった」と、自身のプレーに驚きを覚えたと明かす。攻撃的にくるだろうと予想していた相手が、やや守備的だったことを意外に感じたとも言う。

「彼のいいところを出させないようにプレーしたつもりではあるので、いいところが出る前に終わってしまったのか、僕が強すぎたのか......」

 冗談交じりにそんな言葉も口にするが、口調は朴訥で、どこか自分でも不思議に思っている様子。同時に、「これが続かなくては意味がない」と、気を引きしめることも忘れなかった。

【有明コロシアムの空気を支配した】

「細かい部分で簡単なミスも最後のほうは出ましたし、ちょっと足が動いてくれなかった。まだまだ体力不足と、バネのなさっていうのは、最後に出たかなと思います」

 3回戦のホルガー・ルネ(デンマーク)戦から約30分後の、会見の席。6-3、2-6、5-7の惜敗に深く落胆する錦織は、まだ気持ちの整理もついていない様子だった。

 第1セットは、早々にブレークして31分で奪取。錦織の早い展開とショットの精度に、ルネは常に後手に回った。錦織の背を押す満員の観客の声にもルネは苛立ちを見せ、粗いミスも目立つ。有明コロシアムの空気を、錦織が完璧とも言えるプレーで支配した。

 ただ、第2セットの第1ゲームで錦織がブレークポイントを逃した頃から、潮目が変わり始める。

 現在ランキング14位、昨年は世界4位まで至った21歳は、若いながらも修羅場をくぐってきた数は豊富だ。ベースラインからじっくりラリーを作り始め、ドロップショットで錦織を前後に揺さぶる。第2セット終盤からは、錦織の集中力が切れたかのような時間帯も訪れ、さらに流れはルネに傾いた。

 それでもファイナルセットでは、再び錦織の精度とバリエーションが上がる。同時にルネも、錦織のリズムと多彩なショットに創造性を刺激されたかのように、背面打ちやハーフボレーなど、魅せるプレーを披露し始めた。両者のプレーと意図が噛み合い、極上のエンターテインメントが繰り広げられる。

 その濃密な並走状態から、先に値千金のブレークをもぎ取り、マッチポイントも手にしたのは錦織だった。だがそのたび、ルネは目に見えて集中力が上がり、上質のプレーで危機を切り抜ける。

「彼も最後、要所要所でいいプレーをしていた。1セット目と違いレベルも上げてきたので、彼がよかったのは認めざるを得ないところ」

 相手の強さを認めつつ、大会全体を振り返り、こうも言う。

「(トップレベルに)だいぶ近づきましたね。この3試合を通して、かなりフィーリングがよかったし、昨日の試合ができすぎていたので、今日はちょっと落ちるのを覚悟していたんですけど、十分よかった」

【内に潜む「かつての感覚」が蘇る瞬間】

 悔いを覚えながらも課題を見つけ、明るい材料に目を向けて前を向く。短時間の会見のなかで見せる落胆と希望の相剋(そうこく)も、かつてよく見た錦織の姿。

 その既視感あふれる光景こそが、言外の復活宣言でもあるだろう。

 復帰してからこの半年間──いや、おそらくはケガで戦線を離脱していた1年以上、錦織は身体の内に潜む『かつての感覚』が蘇る瞬間を、待ち続けてきたはずだ。

 彼が探し求めたその「明日」は、錦織の復活を信じるファンの願いに満たされた、有明コロシアムにあった。