スポーツ競技が人気となり、発展するか否かは、その競技を代表するスターの存在抜きには考えられない。バスケットボールのマイ…

 スポーツ競技が人気となり、発展するか否かは、その競技を代表するスターの存在抜きには考えられない。バスケットボールのマイケル・ジョーダンしかり、ゴルフのタイガー・ウッズしかり、ベースボールの大谷翔平しかり…。現在、日本の人々がサッカーに親しんでいるのは、あるスーパースターと深い関係があると指摘するのは、サッカージャーナリストの大住良之だ。その見つめる先は45年前、1979年に日本で開かれた世界大会「ワールドユース」。この大会で躍動した「神の子」と、彼のプレーに魅了された人々、そして、各国の強豪と戦った日本ユース代表が日本サッカー界にもたらしたものとは?

■「使えなかった」帝京高校のエース

 そうしたなか、日本ユース代表の奮闘も、大会への関心を牽引する役割を果たした。

 1977年に「日本開催」が濃厚になった頃、日本協会の懸念のひとつは「お金」だったが、もうひとつ「ホスト国として恥ずかしくないチームを出せるか」にも自信がなかった。日本は1959年に始まったアジアユース大会(現在のAFC U-20アジアカップ)に参加し続けてきたが、準優勝が1回あっただけで、グループリーグ敗退も多かった。

 しかし、自国開催の大会でふがいない戦いを見せることはできない。日本協会は開催が正式決定すると、1976年以来この年代の代表監督を務めてきた松本育夫を起用して、1978年3月に意欲的な強化をスタートした。松本は1968年メキシコ・オリンピックの「銅メダルメンバー」である。強化スタート時には36歳だった。後にコーチとして花岡英光、さらにやはり「銅メダルメンバー」の森孝慈が加わり、指導体制が整った。

 松本監督には残念なことがあった。現在なら、1979年の「U-20」の年齢制限は「1959年1月1日以降生まれ」ということになるが、当時は欧州の学制あるいはシーズン制に合わせて「1959年8月1日以降生まれ」となっていた。当時の日本では、4月から8月生まれに優秀なアスリートが集まることが多かった。帝京高校のエースだった早稲田一男(1959年4月14日生まれ)などの選手を使えなかったのだ。

■1年目は「知恵比べ、技比べ」がテーマ

 1年半後の大会まで、13次にわたる国内強化合宿(千葉県の東京大学検見川グラウンドで行われた)と2回の欧州遠征、そして1回のアジアユース大会出場をこなした。現在ならJヴィレッジなどでの合宿となるだろうが、検見川の合宿所は大部屋にゴロ寝で、食事も豊かとはいえなかった。

 松本は1年目は「知恵比べ、技比べ」をテーマとし、技術と戦術の向上を目指した。当時の日本のサッカー選手は、世界の舞台で戦うのにすべてが不足していたが、なかでも止めること、蹴ることを中心としたボールを扱う技術と、攻守両面での戦術の未熟さが目立っていたからだ。そして強化2年目、1979年に入ると体力強化が大きなウェートを占めるようになる。

「2月から3月にかけて、1日おきに専門のトレーナーについて体づくりをした。1日4回、朝6時に起床してランニング、その後、午前と午後に練習をして、夜には体育館でトレーニングをした時期もあった。いま思えば相当無茶なこともした。代表チームで、ここまで徹底して体づくりをやったのは初めてのことだった」と、松本は振り返る。

「血の小便」という逸話が生まれたのはこのときである。あまりにトレーニングが厳しいため、何人かの選手の小便に血がまじったことがあったというのだ。

「それでも、ひとりの脱落者もいなかった。最初から説き続けてきた『日の丸をつけてプレーすること』の意味を、この頃にはみんなが理解して、誇りを持ってトレーニングに臨んでいてくれたからだと思う。全員がメニューをこなし、本当に強くなった」(松本)

■全国の9地域から「有望な選手」を推薦

 こうした徹底した強化とともに、日本のサッカーにとって見逃してはならない「変化」もあった。それまでの日本では、高校選手権など全国大会で活躍した選手がユース代表に選ばれ、そこから代表になっていくという形が多かったが、この大会の候補選手を選ぶために全国の9地域から有望な選手を推薦してもらい、その選手たちを集めてそこからピックアップするという方法がとられた。これが後に「トレセン(トレーニングセンター)」となり、日本のサッカーがタレントを発掘する大きな力となった。

 越田剛史は石川県の県立金沢桜丘の無名選手だったが、182センチという長身とともに抜群の身体能力を持ち、「国際試合で活躍できる選手」として松本の目に止まった。

「この大会に選手を送り込もうという熱意が、地域の指導者たちの意識を変えた。ただ高校などの大会で勝とうというのではなく、みんなで日本を代表する選手を育てようという意識が確立された」と、松本は話す。指導者たちのこの「意識改革」は、その後の日本のサッカーの発展の重要な礎となる。

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