スポーツ競技が人気となり、発展するか否かは、その競技を代表するスターの存在抜きには考えられない。バスケットボールのマイ…
スポーツ競技が人気となり、発展するか否かは、その競技を代表するスターの存在抜きには考えられない。バスケットボールのマイケル・ジョーダンしかり、ゴルフのタイガー・ウッズしかり、ベースボールの大谷翔平しかり…。現在、日本の人々がサッカーに親しんでいるのは、あるスーパースターと深い関係があると指摘するのは、サッカージャーナリストの大住良之だ。その見つめる先は45年前、1979年に日本で開かれた世界大会「ワールドユース」。この大会で躍動した「神の子」と、彼のプレーに魅了された人々、そして、各国の強豪と戦った日本ユース代表が日本サッカー界にもたらしたものとは?
■日本協会は「ノー」という余裕もなし
ジョアン・アベランジェは、コカコーラとの契約がまとまると、すぐにスイス人ビジネスマンだったゼップ・ブラッターを雇用、「テクニカルディレクター」としてワールドユースの実質的な責任者とした。ブラッターはチュニジアでの第1回大会が終わるとすぐに日本へ飛び、日本のメディアに「次回は日本が有力」と語って日本協会を慌てさせた。
日本協会の懸念はもっぱら「お金」だった。財布はカラである。赤字開催などできない状態だった。しかし、このときの話し合いで、ブラッターは「金銭的な負担はかけない」と約束したようだ。出場チームの航空運賃はすべてFIFAが負担する。日本には、チームの宿泊費、国内移動費、大会運営費を負担してもらわなければならないが、日本各地のコカコーラ・ボトリングが協力してくれるだろう…。
なんとも情けない話だが、第2回ワールドユースの日本開催はFIFA側ですでに規定路線で、日本協会は「ノー」という余裕もなく9月29日に正式「立候補」を決定、12月のFIFA視察団の視察を受け、翌1978年1月13日、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催されたFIFA理事会で日本開催が正式に決定した。
■北朝鮮の「出場辞退」以上の大きな衝撃
「運営能力」を買われた日本だったが、順調に開催にこぎつけたわけではなかった。1979年2月23日に組分け抽選が行われ、試合日程が決まった。会場は東京の国立競技場をメインとし、関東では他に横浜の三ツ沢球技場と大宮の大宮サッカー場、さらに神戸の神戸中央球技場、広島の広島県営競技場の5スタジアム。
A組(日本、スペイン、メキシコ、アルジェリア)は国立と三ツ沢で、B組(ポーランド、ユーゴスラビア、アルゼンチン、北朝鮮)は三ツ沢と大宮、そしてC組(カナダ、ポルトガル、パラグアイ、韓国)は神戸、D組(ソ連、ハンガリー、ウルグアイ、ギニア)は広島で試合をすることになった。
第一の事件は、北朝鮮の出場辞退だった。抽選会の翌日、2月24日にFIFAに電報で通知されたが、FIFAは代替出場国をインドネシアと決め、3月15日になって日本に通告した。
それ以上に大きな衝撃は広島の「開催返上」だった。FIFAの求める「シャワー付き更衣室4室、シャワー付き審判室」を整備することができないため、大会まで5か月を切った3月29日に返上を決めたのだ。しかし、この時点で代替開催地を求めることは難しく、結局残る4スタジアムで全試合を開催することになった。A組は全試合国立、B組は全試合大宮、C組は予定どおり全試合神戸、そしてD組は全試合三ツ沢で開催することになったのだ。
■ファンを熱狂させた「次代を担う」俊英たち
さまざまなゴタゴタがあったが、大会が始まるとサッカーファンは熱狂した。何よりも、次代を担う俊英たちが活気あふれるプレーを見せたことが大きかった。
マラドーナを中心とするアルゼンチンには、MFフアン・バルバス、FWガブリエル・カルデロン、そして何よりも、FWラモン・ディアスといった才能あふれる選手たちがいた。なかでもディアスは8得点を挙げ、6得点のマラドーナをしのいで得点王となった。後に不仲になったと言われるマラドーナとディアスだが、この大会の2人のコンビプレーには、そのままワールドカップに出してもトップクラスと呼べる質の高さがあった。
パラグアイのMFフリオ・セサル・ロメロは、神戸のファンを熱狂させた。三ツ沢では、ウルグアイのFWルベン・パスがスピードあふれる動きでファンの目を引いた。初戦で日本と対戦したスペインでは、センターバックのミゲル・テンディーリョがすでにバレンシアでレギュラーとして活躍している貫禄を見せた。