スポーツ競技が人気となり、発展するか否かは、その競技を代表するスターの存在抜きには考えられない。バスケットボールのマイ…
スポーツ競技が人気となり、発展するか否かは、その競技を代表するスターの存在抜きには考えられない。バスケットボールのマイケル・ジョーダンしかり、ゴルフのタイガー・ウッズしかり、ベースボールの大谷翔平しかり…。現在、日本の人々がサッカーに親しんでいるのは、あるスーパースターと深い関係があると指摘するのは、サッカージャーナリストの大住良之だ。その見つめる先は45年前、1979年に日本で開かれた世界大会「ワールドユース」。この大会で躍動した「神の子」と、彼のプレーに魅了された人々、そして、各国の強豪と戦った日本ユース代表が日本サッカー界にもたらしたものとは?
■決勝戦は「5万2000人」で埋まった
1979年の「ワールドユース」、ディエゴ・マラドーナが率いるアルゼンチンの決勝戦の相手は前回チャンピオンのソ連。1点を先制されたが、前半のうちにDFフアン・シモンのPKで追いつき、後半30分にはFWラモン・ディアスが40メートルの高速ドリブルで相手を振り切って逆転ゴールに成功する。そして後半35分、ソ連を突き放して優勝を確定させるペナルティーアークからのFKを左隅に決めたのは、もちろんマラドーナだった。
東京・国立競技場で行われた決勝戦は、5万2000人のファンで埋まった。その多くは、若いファンだった。日本の組織委員会は、選手たちと同年代の若いファンにこの大会を見てもらおうと、非常に安い入場料を設定していたからだ。
小学生500円(10人以上の団体300円)
中高生800円(10人以上の団体500円)
一般 1000円(決勝戦のみ1500円)
指定S2000円(決勝戦のみ3000円)
日本が出場したグループリーグの3試合が、スペイン戦3万人、アルジェリア戦3万2000人、メキシコ戦3万8000人と、試合を追うごとに増え、最高の雰囲気になったのは、高校生を中心とした若い世代のファンの関心の高さがあった。
さらに、NHKで全国に生中継されたことも大きかった。日本の全3試合だけでなく、アルゼンチンの試合も放送された。こうして、日本中のサッカー少年たちがマラドーナに夢中になり、日本サッカーの歴史が大きく動いた。
■皮切りはアメリカ「コカコーラ」との契約
ではなぜ、第2回「ワールドユース」のような世界大会がこの時期に日本で開催されることになったのだろうか。
大会の「生みの親」はジョアン・アベランジェ、1974年から1998年年まで、24年間にわたってFIFA会長を務めたブラジル人である。1974年の会長選挙で現職のサー・スタンリー・ラウス(イングランド)と争ったアベランジェは、「サッカーを世界のものとする」ことを公約として当選を果たした。それまでの世界のサッカーは、欧州が圧倒的に主導権を握り、強豪国を持つ南米はリスペクトされていたものの、その他の地域(アフリカ、アジア、北中米カリブ海、オセアニア)はまったく視野に入っていなかったからだ。
アベランジェはその資金を得るためにコマーシャリズムと結びつくことを決断。皮切りが、アメリカの飲料メーカー「コカコーラ」との契約だった。1976年5月13日、ロンドンで、FIFAは「世界のサッカー発展プログラム」で協力しあう契約をコカコーラと結んだ。そしてその資金を投入して最初に手をつけられたのが、「ワールドユース」の開催だった。
ワールドカップでいきなり欧州の強豪と対戦しても、他地域の選手たちは対応できない。南米の選手たちでさえそうだった。そこで若い年代の世界大会を創設し、そこでの経験をワールカップで生かそうという考えだった。
■「第2回大会は日本で」寝耳に水の外電
第1回「コカコーラ杯ワールドユース大会(大会の正式名称は、1979年の第2回大会までWorld Youth Tournamentだった。第2回大会の成功を受けて、1981年の第3回大会からWorld Youth Championship」(ワールドユース選手権、となった)は、1977年6月から7月にかけて北アフリカのチュニジアを舞台に行われ、決勝戦は2-2からPK戦9-8でソ連(現在のロシア)がメキシコを下して優勝を飾った。しかし、観客も少なく、世界的な注目度は低く、大会の運営もお粗末で、「成功」にはほど遠い内容だった。
2年に一度の大会である。第2回のホスト国は、この大会の1年前から募集が始まっていた。FIFAは1976年6月の「サーキュラー(回状)」で立候補国を求めた。日本サッカー協会はその2年前に法人化して財団法人になったばかりで、まだ大きな借金を抱えていた。それでも、半ば義理のような形で「大会の内容を知りたい」との返信を出した。
1977年5月、外電が「第2回ワールドユース大会開催の有力候補に」と伝えたとき、日本協会はまさに「寝耳に水」だった。FIFAが正式に日本協会に開催意思確認の連絡をしてきたのは、翌月だった。これに対し、日本協会は「意思はあるが、研究させてほしい」と回答。さっそくチュニジアに技術担当の藤田一郎を派遣した。
他にも、オーストラリア、イラン、オランダ、ウルグアイ、アメリカが開催意思を表明していたが、この段階で、FIFAは「第2回大会は日本で」と決めていたらしい。チュニジアでは、大会運営のずさんさとともに、コカコーラとチュニジア政府の関係も良くなく、スポンサーから大きな不満が出ていた。日本は、アメリカ、西ドイツと並ぶコカコーラの「3大マーケット」のひとつであり、好調な経済、東京オリンピック(1964年)で実証された大会運営能力の高さなど、「2大会連続の失敗は絶対に許されない」FIFAとしては、日本に懸けるしかなかった。