スポーツ競技が人気となり、発展するか否かは、その競技を代表するスターの存在抜きには考えられない。バスケットボールのマイ…

 スポーツ競技が人気となり、発展するか否かは、その競技を代表するスターの存在抜きには考えられない。バスケットボールのマイケル・ジョーダンしかり、ゴルフのタイガー・ウッズしかり、ベースボールの大谷翔平しかり…。現在、日本の人々がサッカーに親しんでいるのは、あるスーパースターと深い関係があると指摘するのは、サッカージャーナリストの大住良之だ。その見つめる先は45年前、1979年に日本で開かれた世界大会「ワールドユース」。この大会で躍動した「神の子」と、彼のプレーに魅了された人々、そして、各国の強豪と戦った日本ユース代表が日本サッカー界にもたらしたものとは?

■来日した「20世紀最大のスーパースター」

 45年前、1979年8月25日から9月7日まで東京他、日本の3都市で行われた「第2回コカコーラ杯FIFAワールドユース大会」は、1990年代半ば、Jリーグ誕生以後の日本のサッカーの発展に重要な意味を持っていた。今回はその大会について書きたい。

 第一に、後に20世紀最大のスーパースターのひとりと言われるまでになるディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン)が圧倒的なプレーを見せ、それが日本の少年たちのサッカーに対する夢を大きく膨らませたこと。そして第二に、「ホスト国」として予選なしで出場権を得た「日本ユース代表」の選手たちが、その後の日本代表の中核となり、Jリーグへとつながる活躍を見せたこと。そして第三に、「サポーター」文化の萌芽である。

「ワールドユース大会」は、1977年に誕生し、現在の「FIFA U-20ワールドカップ」へとつながっている。オリンピックを別にすると、国際サッカー連盟(FIFA)は現在、サッカーだけで4つの「年代別ワールドカップ」を開催している。男女それぞれのU-20(20歳以下)とU-17(17歳以下)のワールドカップである。その最初の大会が、「ワールドユース」だった。

■野望に燃える18歳の「初めて」の世界大会

 マラドーナが誰で、どんな存在であったか、いまさら説明の必要はない。ひとつだけ言っておきたいのは、1979年8月の時点で、彼はすでに世界中が注目する「次代のスーパースター候補」であったことだ。マラドーナは前年のワールドカップで17歳にして最終候補まで残り、この1979年の5月から6月にかけてはハンガリー、スコットランド、アイルランドと回ったアルゼンチン代表の欧州遠征で見事なプレーを見せ、最高の評価を得ていた。もちろん、日本のサッカーファンの間でもマラドーナの名は語られるようになっていた。

 しかし、「すごい選手が現れた」という雑誌の情報と、実際にスタジアムで見たり、あるいは生中継でプレーを見ることでは、そのインパクトに大きな隔たりがある。1979年の日本のサッカーファンは本当に幸運だった。18歳のマラドーナが野望に燃えて初めての「世界大会」を戦う姿、夢のようなドリブルテクニックとパスの能力、得点力などを、スタジアムやテレビで目の当たりにすることができたからだ。

 そして日本中のサッカー少年たちは、一夜でマラドーナに夢中になった。いや、少年たちだけでなく、日本代表クラスの選手まで、マラドーナに夢中になり、ドリブルテクニックに磨きをかけた。

 マラドーナより2歳年上で、当時明治大学の2年生だった木村和司(後に日産自動車、横浜マリノス)もそうだった。前園真聖(後に横浜フリューゲルスなど)は、1979年の時点では未就学だったが、小学2年生のとき、1981年に「ボカ・ジュニアーズ」とともに来日したマラドーナを見て「僕はマラドーナになる」と決心した。

■メキシコ五輪で「銅メダル」を獲得するも…

 1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを得た日本のサッカー。しかし、ひとにぎりの選手の強化で得られた結果は長続きしなかった。日本代表はオリンピックやワールドカップのアジア予選で敗退を続け、世界との差は広がるばかりだった。

 高校サッカー選手権の首都圏開催、全日本少年大会(現在のJFA U-12選手権)の開催(ともに1977年)や漫画『キャプテン翼』の人気(1981年、アニメは1983年から)などにより、若い世代の間で競技人口は増えていたが、そのサッカー少年たちに決定的な夢を与えたのはマラドーナだった。1979年の「ワールドユース」日本開催がなければ、そしてそこでマラドーナがプレーしなければ、日本のサッカー史はだいぶ違ったものになっていたに違いない。

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