【第16回】アニマル浜口が語る「国際プロレスとはなんだ?」

 1977年2月、アニマル浜口はグレート草津とタッグを組み、自身初となるビッグタイトルを獲得する。しかし、兄貴分と慕った草津との別れは急に訪れた。国際プロレスが解散してから36年。今年8月で70歳となるアニマル浜口の脳裏によぎる想いとは――。

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酒を酌み交わすアニマル浜口(左)、吉原功社長(中央)、グレート草津(右)

「国際プロレス四天王」のひとり・グレート草津(5)

 アメリカから戻ったグレート草津は、直後の1972年6月30日、岐阜市民センターでバロン・シクルナと自身初の金網デスマッチを挙行した。そして11月27日には愛知県体育館でストロング小林と組み、WWA世界タッグチャンピオンのディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーに挑戦。この試合は、史上初の金網タッグ・デスマッチだった。

 さらに1974年7月1日、福岡・九電記念体育館では日本初のテキサス・チェーン・デスマッチ(※)でザ・キラーを撃破する。「金網デスマッチの鬼」ラッシャー木村に対し、グレート草津は「チェーン・デスマッチの鬼」として人気を集めた。

※テキサス・チェーン・デスマッチ=お互いの手首を鎖でつないだ状態で戦い、10カウントノックアウトとギブアップのみで勝敗が決まるルール。

 また、草津はサンダー杉山、ストロング小林、ラッシャー木村、マイティ井上をパートナーとして、IWA世界タッグ王座を何度も奪取した。1977年3月26日には、1ヵ月前に2度目の海外遠征から帰国したアニマル浜口とタッグを組み、東京・蔵前国技館でクルト・フォン・ヘス&ビッグ・ジョン・クインを破ってIWA世界タッグチャンピオンに返り咲く。浜口にとっては、初のビッグタイトル獲得だった。

 1970年代、グレート草津は紛れもなく、国際プロレスのエースのひとりだった。

 ところが1980年7月9日、地元・熊本での大会で行なわれたグレート草津、ラッシャー木村、大木金太郎vs.ジプシー・ジョー、ランディ・タイラー、ロッキー・ブリューワーの6人タッグマッチで、試合中にリング下の板が割れて隙間ができ、草津はそこに落ちて右足首を骨折。長期欠場することになった。

 その後、草津はケガが癒えた後もリングに戻ることはなく、国際プロレスの幹部や現場責任者として会社を支えていくことになる。だが、国際プロレスは1981年8月9日に活動を停止し、9月30日に解散。草津の最後の役職は営業本部長だった。

「吉原(功/よしはら・いさお)社長を支えて、草津さんも苦労されたんでしょうね。国際プロレスが解散する前、僕は長期欠場中だったので詳しいことはわかりませんが……。僕も草津さんもお互い現場にいれば、その後は違った話になったかもしれないですし」

 国際プロレス崩壊後、草津は静岡県三島市にある湯沸かし器製造会社に転職した。そして、天理高校ラグビー部員として花園でも活躍した息子・賢治は日本大学に進学後、空手の正道会館に入門。その後、アンディ・フグ率いる「チーム・アンディ」の一員として、2000年には父親のリングネームを引き継ぎ「グレート草津」としてK-1デビューを果たす。父・正武も試合会場などでインタビューを受け、テレビや新聞、雑誌などに登場することもあった。

「人柄なんでしょうね。プロレス界を去って一般企業で営業のお仕事をされていましたが、成績もよかったそうで。その後は他の会社に引き抜かれ、役員をされたりもしていました。東京に来ると、女房の店にもよく顔を出してくれましたね。息子さんが格闘技界で活躍されているのは知っていましたが、ちょうど女子レスリングがオリンピック種目となることが決まって、京子がアテネオリンピックを目指しているときでしたから、残念ながら接点はほとんどありませんでした。

 あれは2007年の5月でしたか……。草津さんが食道ガンで入院されたと息子さんから連絡をいただき、女房とふたりで三島までお見舞いに行きました。ウイスキーを持ってね。あくまでシャレですよ。とにかく、よくなってもらいたい一心で。

 そのときは昔のバカ話をずいぶんとしましたね。アメリカでの出来事や、草津さんが八幡製鉄でラグビーをやっていたころから好きだった小倉の旦過(たんが)市場のこととか。旦過市場というのはね、『北九州の台所』と言われているところで、肉でも魚でも野菜でも、ありとあらゆる食材が売られていたんです。僕たちはおでんやおむすび、ぼたもちを食べたり、屋台で呑んだり、スナックに行ったりしてね。呑んで、騒いだもんです。『楽しかったなぁ』『呑みましたね』なんて、ふたりで若かったころを懐かしんだんですけど。

 ふと、ベッドの端に目をやると、布団から草津さんの足がはみ出しているのが見えたんです。大きな足でね、厚くて、大木の根っこみたいでした。『この足で、この人はラグビーのグラウンドを駆け回り、プロレスのリングで暴れ回ったんだな……』って思ったら、なんか妙にジーンときましたね。

 人間には相性というものがあるじゃないですか。合うか、合わないか。人生において何でも言える間柄なんて、何人もいないですよね。草津さんと日本やアメリカの各地でともに過ごした思い出が走馬灯のように甦ってきて、『あぁ、この人と居酒屋でまた呑みたいな。夜が明けるまで』なんて思いました」

 その後、肺などにもガンが転移した草津は、2008年6月21日、多臓器不全のため死去――。享年66歳だった。

 ちなみに、父親の看病のために格闘家としての活動を休止していた賢治は、2008年11月21日に「SKULLSHIT presents SKULLMANIA Vol.2 ~グレート草津FINAL~」に出場する。正道会館の先輩・中迫強と対戦し、サプライズ登場した武蔵ともスパーリングを行ない、引退した。

「吉原功社長が55歳、グレート草津さんが66歳、ラッシャー木村さんが68歳……。僕にとって大切な恩師や先輩たちが次々と亡くなられました。今の日本人の寿命からしたら、若すぎる歳ですよね。もっと長生きして活躍してほしかったし、『ハマ、この野郎!』って怒ってもらいたかった。

 僕は69歳となり、数えで70歳。古希を迎える今も、『アニマル浜口トレーニングジム』で会員さんたちを指導させていただき、『浜口道場』では娘・京子をはじめ、プロレスラーや格闘家を目指す若者を教えています。最近つくづく思うのは、自分のなかには吉原社長の教えや、国際プロレスで一緒に戦った先輩や仲間たちの想いが生きているということ。だからこそ、こんなところでくたばるわけにはいきません。

 1987年8月20日、東京・両国国技館で『この四角いリングのなかに私の人生がありました。青春がありました! ありがとう、プロレス! さようなら、プロレス!』と叫んで引退した僕は、自分を育ててくれたプロレス界に、スポーツ界にまだまだ恩返しをしなければ。

 やりますよ! 『精神爽奮(そうふん)、病去る』『旺盛な生命力、活力、気魄(きはく)』をもって、アニマル浜口は100歳はおろか、200歳まで生き続ける!

『宝の山が降りてきた! ワッハハ♪
あなたも笑えば、のびる、のびるよ、寿命がのびる。
オレは生きるぞ、200歳。
気合と笑いのコラボで生きてやる♪』」

(つづく)
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