女子トライアスロンのパイオニア庭田清美さんインタビュー(前編) オリンピックのために約1世紀ぶりに遊泳が許されたセーヌ川がスイム会場となっていることでも注目されているトライアスロン。「スイム」「バイク」「ラン」と3つの種目で争う競技だが、勝…

女子トライアスロンのパイオニア
庭田清美さんインタビュー(前編)

 オリンピックのために約1世紀ぶりに遊泳が許されたセーヌ川がスイム会場となっていることでも注目されているトライアスロン。「スイム」「バイク」「ラン」と3つの種目で争う競技だが、勝負のポイントとしてもうひとつ重要になるのが、それぞれの種目を転換する時の「トランジション」だ。

 庭田清美さんは、トライアスロンがオリンピックの正式競技になった2000年シドニー五輪に日本代表として初出場し、日本人最高位の14位に。以後、アテネ五輪(14位)、北京五輪(9位)と、3大会連続出場を果たした、女子トライアスリートのパイオニア的存在である。

 その庭田さんが昨年の夏、あるトランジション(=転機)をし、新たな世界に活躍の場を広げた。2023年6月、庭田さんはタクシー会社の株式会社ハロートーキョー(日本交通グループ)でパートタイムの『GO クルー』としてドライバー業務をスタートさせたのだ。現在はトライアスロンのコーチをしながらが、『GOクルー』のドライバーとして、週3日ほど、朝6時から昼12時まで、都内を走っている。

 そんな庭田さんに、現役時代とセカンドキャリアについて、話を聞いた。



トライアスロンが正式種目になった2000年のシドニー五輪に出場した庭田清美さんphoto by Jun Tsukida/AFLO SPORT

 庭田さんは、トライアスロンと出会う以前は、自分が何をやりたいのかわからない人間だったと振り返る。

「小学1年から中学3年までは水泳をやり、高校時代に半年ほどバレーボールをやったあと、スポーツは何もせず、アルバイトばかりやっていました。高校卒業後はスイミングスクールに入社して、そこでも何もしていなかったです。自分が何をしたいのか、自分が何をしていけばいいのかがわからないなかで、そこも2年くらいで辞めてしまいました。

 とりあえずできそうなことにチャレンジしながら、最後にたどり着いたのがフィットネススポーツクラブでの仕事でした。そこのクラブ会員の方から誘われたのがトライアスロンで、それが23歳の時でした」

【W杯で日本人初の表彰台に】

 バイクもランも未経験ながら、根っからの負けず嫌いだった庭田さんは、楽しさをパワーに変えてめきめきと力をつけて、本格的に競技を始めて2年後には出場した大会で優勝し、あっという間に注目のトライアスリートになった。それがシドニー五輪からオリンピックの正式種目になることが決まった翌年の1995年のこと。トライアスロン界が有望な人材探しで盛り上がっていた時期でもあった。

「96年3月に、これからオリンピックに挑戦する人を見つけようと、日本トライアスロン連合(JTU)が企画した第1回の強化指定の認定記録会があって、お付き合いがあった自転車屋さんに言われて出たら、ギリギリで合格してワールドカップ(W杯)に出られるという通知が来てしまったんです。

 いきなり実績のないニューフェースの選手がW杯に出ることになり、自転車を車で運べる近距離の大会だけに出たのですが、完走できずに終わりました。恥ずかしさと情けなさに加え、協力してもらった人たちへの申し訳なさもありました。それで、どの日本選手よりも最初に、私が国際大会で一桁順位に入ってみんなを驚かせたいと、ひそかに闘志を燃やし始めていましたね。それからはすごく練習するようになり、いろんな練習メニューを考えたり、いろんな場所に出稽古に行ったりしました」

 その成果はすぐに結果に出た。アメリカ・クリーブラントで開催された96年世界選手権に初出場して完走。最下位から2番目の成績だったが「めちゃめちゃうれしくて泣いて喜んだ」という。

「それからですね。もっとやってみたいなと思うようになりました。これまでは飽き性だったので何をやってもダメだった。でも、これは自分に合っていそうだなと、何かが見つかった気がして、自然とトライアスロンに本格的に取り組むようになりました」

 97年にはプロとして活動しないかという声が掛かり、本格的にプロアスリートとしての競技活動が始まった。それからの庭田さんの活躍は目覚ましく、97年W杯蒲郡大会では準優勝して日本人初の表彰台に上るなど、現役時代は数々の大会で好成績を挙げて第一人者となっていった。類まれなオリンピアンは、現役時代をこう振り返った。

【わからないように着ぐるみのアルバイトに応募】

「正直言って、生まれ変わったみたいでしたね。オリンピックに3回も行けるとも思っていなかったし、そういう野望もなかったです。子どもの頃から夢というものがなかったし、何になりたいということもなかった。それが大人になって夢が見つかって、少しずつのめり込んでいったというのが本音です。けど。トライアスロンに出会っていなかったら、どんな人間になっていたんだろうと思いますね(苦笑)。オリンピックに3回行くことができたのは、常に自分の可能性を追い求めてきた結果でした」

 2012年ロンドン五輪でも4回目の出場を狙ったというが、人生初の骨折という大ケガもあって出場は叶わなかった。しかし、すぐには現役引退せず、国内外のレースで優勝や表彰台に乗る活躍を見せて健在ぶりをアピール。「私のリミッター(限界値)は人よりも高かったかもしれない」と振り返る庭田さんが第一線を退いたのは2016年のことだった。

 現役引退後のセカンドキャリアだが、庭田さんはいろいろ迷い悩みながらも、さまざまな仕事に挑戦したという。

「現役生活から離れたあとのことは何も考えていなかったです。引退後は何をしようかなと悩んで、大会ゲストの話などはありましたけど、トライアスロン以外の世界に行くための、自分には履歴書を書けるほどの経歴がないんですよ。何もないから、興味のあることは何でもやろうと思って動きました」

 オリンピアンであることがわからないようにと、着ぐるみのアルバイトに応募したり(不合格で結局やれなかった)、2トントラックに乗って倉庫から雑貨の配達をして回るアルバイトをやったりもした。古巣の稲毛にあるクラブのヘッドコーチとして、約2年間、多様な業務に従事したし、先輩がトライアスロン普及のために設立した会社で会社員も経験した。しかし、どこかに縛られることを嫌う性格もあって、22年以降は、フリーランスの立場で、トライアスロンコーチをするかたわら、社会勉強としてのアルバイトも続けた。

「コロナ禍の時期にはPCR検査センターの総合窓口に設けられたコールセンターで問い合わせを受けたりしていました。そうしたなかで、『GOクルー』(ドライバー)の話があったので、挑戦することになったんです。トライアスロンコーチとしての活動がメインですが、空いている時間にドライバーの仕事ができるのが魅力でしたね。もともと車の運転が好きな自分には合っていて、現在はコーチ活動にも支障なくできることができています」
(つづく)

■Profile
庭田清美(にわたきよみ)
1970年12月10日生まれ、茨城県牛久市出身。23歳の時に入社したフィットネスクラブで、会員に誘われてトライアスロンに出会う。94年に競技者として大会デビュー。97年にプロ宣言したあと、ワールドカップ蒲郡大会で日本人初の表彰台となる準優勝を飾った。トライアスロンが初めて競技種目となった2000年シドニー大会から五輪3大会連続出場を果たした。日本選手権では03年に初優勝し、05年、06年に連覇を果たす。16年に現役引退。第一線を退いたあとは、トライアスロンコーチをメインにしながら多彩なジャンルの仕事に従事。昨年6月からタクシーを呼べるアプリ『GO』のパートタイムのドライバーになった。