橋本大輝を指導神田眞司コーチインタビュー(第3回)「いまは高校時代と違って、無責任なことは言えないから、橋本の言うことを聞きながら、僕が気になったところはなるべく言うようにしています。周囲は気を遣って、嫌なことを言わなくなってきているところ…
橋本大輝を指導
神田眞司コーチインタビュー(第3回)
「いまは高校時代と違って、無責任なことは言えないから、橋本の言うことを聞きながら、僕が気になったところはなるべく言うようにしています。周囲は気を遣って、嫌なことを言わなくなってきているところもあるので、僕は毎日見ているわけではないから、(アドバイスをするのは)なかなか難しいんですけど、"そこの足が開いている"とか、言っていかないとね。僕の言うことを聞いているかどうかわかりませんが。
それでも(橋本)大輝も(谷川)航も、ときどき話を聞いてきます。航には『とにかく自分を信じてやりなさい』とアドバイスしました。NHK杯の時の航の跳馬の出来(着地をピタリと決めた)は嬉しかったですよ。しっかりと意識していたし、橋本がケガで欠場していたので、航ひとりに念力を送っていました(笑)」
パリ五輪体操日本代表の橋本大輝と谷川航を高校時代に指導した船橋市立船橋(市船)高校体操部の元総監督で現技能講師の神田眞司コーチ(65歳)。2005年から市船の体操部を指導し始めた神田コーチにとって、教え子が日本代表として活躍することは大きな喜びだという。それは体操に情熱を燃やした自らの経験にもよるものだった。
「それは嬉しいですよ。そこを目指して教員になったんですから(笑)。
自分が現役の時は、いくつになっても代表になれなくて、世界選手権に出たのは定時制の教員の時で、28歳でした。順天堂大学に大学院まで8年と長くいて、その後の2年間も残してもらって、庶務課にいながら練習だけすればよかった時期もありましたが、(現役選手を)辞めようと思っていたんです。でも、やっぱり代表になれずに辞めるのが悔しくてね。
大学時代は体操クラブや幼稚園、保育園などで体操を教えるアルバイトもしながら、真面目に生きていました。十分な練習を積むことはできなかったんですけど、手ごたえは感じることができて、ロッテルダムの世界選手権(1987年)に向けてやる気を出して練習していました」
現在も市船の技能講師、セントラルスポーツのアドバイザーコーチとして教え子を指導する神田眞司氏
【五輪に出られなかった現役時代】
「翌年の1988年に西川(大輔)や池谷(幸雄)が代表になったソウル五輪があって、五輪代表選考の2次予選では6番に入ったから"大丈夫かな"と思っていたんですけど、次戦のNHK杯の時に試合前夜の夕食に食べた刺身で食あたりをしてしまい、結局、11位に終わった。本当にくだらない失敗をしました。
当時は結婚もしていて、定時制の教員をしながら、学校のあとで100キロも離れた遠い練習場に通って練習するという日々を過ごしていましたが、大変なことをやっているという思いはさらさらなくて、辞めることに対しての意地があって、結果を残して辞めたいという気持ちだけがあったんです」
日本を代表して国際試合の舞台に立つことへの想いを、神田コーチは続ける。
「初めて日本代表になって出場したロッテルダムの世界選手権では、体操が面白くなかったんです。歳も取っているし、ただ点数を取るという体操だったからです。でも、代表になりたかったし、代表になれるのがうれしかったから、自分がやりたい体操ができなかったわけです。だから、ソウル五輪の選考会ではどっちの体操をやるか迷ったんです。まとめれば点数を取れて代表になれる可能性は高くなるけど、悩んだ末に技をやるほうで臨みました。平行棒と鉄棒で技を入れましたが、結局、体調不良で思いどおりの演技はできませんでした。
ソウル五輪の選考会が終わったあと、"なんだかんだ言っても(代表になって)出なきゃ始まらないよな"と思いました。大会に出られない以上、きれいごとになる。そういう経験が全部、(いまも)教える時に生きています。
長く現役で体操をやり、若い学生たちと一緒に練習をして、いろいろな選手をいっぱい見てきて、"こういうタイプの選手はこうだったな"とか、指導するうえで財産になっています。いろいろなタイプの選手がいましたが、面白いもので、人間はうまくいったケースよりも、ダメな時のほうが覚えているんですね」
現役時代から打ち込んできた体操を、65歳になったいまも指導者として追求している。選手たちにとっては父親のような頼れる存在だからこそ、卒業生たちはいまでも神田コーチがいる体育館に集まり、指導を仰いだり、相談相手になってもらったりしている。
【傲慢な人にはなってほしくない】
「体操人生の父? そんなことはないです。そんなに面倒見のいいほうでもないんですよ(笑)。
僕の指導方針は、どちらかというと弱い子のほうを気にしてあげています。強い子はしっかりと自分でやり抜くだろうと思うので。もちろん、オリンピック選手を作りたいとか、金メダルを取れる選手を育てたいとは思いますけど、レベルが下の子たちが満足して毎日を送れているかどうかは、同じくらい気になります。
強い子は思いきり怒られてもいいんですよ。でも、そこまでの実力がない子とか、ちょっと集団になじめない子たちを大事にしてくれるクラブであってほしいと思っています。強い子はそれだけで認めてもらえます。性格が悪くてもね。でも、強くない子がそうだったら、いじめの対象になりかねない。いろいろなタイプの子たちがいて、お互いを尊重し合ってやろうというなかで、相性が合う、合わないもある。それを無理に合わせる必要もないけど、のけ者にはしないようにしていくという、そんな教育が一番大事なところですかね。お互いを認めようという関係性が大切で、そこに反した言動は腹立たしいですよね。
体操に対して、いろんな関わり合いがあっていいんです。オリンピックで金メダルを取りたいという選手もいれば、中途半端でも体操をやりたいという選手がいてもいいと思っています。英語の補習に行ってから来る子もいますが、それでいい。お互いが正反対の立ち位置にいながら、体操が好きという同じ価値観を持てる子たちが一緒に練習することは、いいことだと思うんです。
今回のパリ五輪代表選考では、航と(谷川)翔(航の弟)の間では、翔が代表になれなかったから"新たなミッション"が待っているんですよ。ミッションと言うと変ですが、それは国体の関東予選で完全試合をすることなんです。僕が『オリンピックも国体も同じだよ』と言ったら、『まだそこまでの境地には至っていませんよ』と言っていました。出たことがない人が言うのもおかしいけどね。だけど、本当にそんな感覚を持ってもらいたい。傲慢な人にはなってほしくないからね」
多くの体操選手を育て、日本体操界の発展に貢献してきた神田コーチは、パリ五輪以降の男子体操王国ニッポンの行く末を案じていた。
「いまの日本体操界には、大学卒業後にセントラルスポーツや徳洲会、コナミスポーツのように体操を続けられる場所があり、それは理想ですが、今後、体操をやれるところがどうなっていくかが心配ですね。企業に所属して体操ができるのはトップ選手だけで、それ以外の選手にはチャンスも与えられない状況になってきているから、なかなか厳しいです。それに加えて、東京五輪が終わってからは、スポンサーが少なくなってきているから、余計にきつくなってしまった感じがあります。
2028年のロサンゼルス五輪は大変ですよ。アメリカ、イギリスが強いんです。ロシアが出てこなくても、日本の4位もあり得ます。さらに言えば、その次の五輪に向けて、選手をどう育てるかを考えないといけないですね。8年後には選手がいないぞ、となりかねない状況なので、今後は選手強化のやり方を変えていかないといけなくなると思います」
(おわり)
■Profile
神田眞司(かんだしんじ)
1959年2月1日生まれ、千葉県出身。中学1年で体操を始め、習志野市立習志野高校、順天堂大学、同大学大学院を経て、1989年4月から母校・習志野高校の教諭になり、教師生活と同時に体操指導者としての活動もスタート。2006年4月から船橋市立船橋高校の教諭として同校体操部を指導し始め、今年で指導歴36年目を迎える。定年退職後、5年間の再任用教諭も24年3月で終了。現在は市船の技能講師とセントラルスポーツのアドバイザーコーチとして教え子たちを指導する毎日を送っている。23年に3度目となる日本体操協会の優秀指導者賞を受賞している。