連載 怪物・江川卓伝〜生涯のライバル・西本聖との絆(後編) 1979年に江川卓が入団してから、西本聖は遮二無二になって江川に勝とうとしていた。年齢的にも1歳しか違わず、高校時代は練習試合で顔を合わせ、ブルペンで投げる江川のボールに衝撃を覚え…

連載 怪物・江川卓伝〜生涯のライバル・西本聖との絆(後編)

 1979年に江川卓が入団してから、西本聖は遮二無二になって江川に勝とうとしていた。年齢的にも1歳しか違わず、高校時代は練習試合で顔を合わせ、ブルペンで投げる江川のボールに衝撃を覚え、一瞬にしてその名前が胸に刻まれた。


巨人時代、一度も勝ち星で江川卓を抜けなかった西本聖

 photo by Sankei Visual

【一度も勝ち星で上回れなかった】

 その江川が入ってきて、西本は本能的に「この男に勝たなくては」と思った。生存競争下において一番相応しい相手であり、西本の滾(たぎ)るような思いをより掻き立てた。

 江川入団以降のふたりの成績を見てみたい。

1979年
西本 8勝4敗/防御率2.76
江川 9勝10敗/防御率2.80

1980年
西本 14勝14敗/防御率2.59
江川 16勝12敗/防御率2.48

1981年
西本 18勝12敗/防御率2.58
江川 20勝6敗/防御率2.29

1982年
西本 15勝10敗/防御率2.58
江川 19勝12敗/防御率2.36

1983年
西本 15勝10敗/防御率3.84
江川 16勝9敗/防御率3.27

1984年
西本 15勝11敗/防御率3.12
江川 15勝5敗/防御率3.48

1985年
西本 10勝8敗/防御率4.03
江川 11勝7敗/防御率5.28

1986年
西本 7勝8敗/防御率3.89
江川 16勝6敗/防御率2.69

1987年
西本 8勝8敗/防御率3.67
江川 13勝5敗/防御率3.51

 84年のみ勝ち星は同じだったが、ほかのシーズンは僅差であろうとすべて負けっぱなし。同一チームの同世代で、これだけ高いレベルで成績を残したのは1960年初頭の阪神の村山実と小山正明以来ではないだろうか。その村山と小山(のちに大毎へトレード)でさえも5年間のみ。ひとつ違いの同世代の投手が、同チームで長きにわたって高いレベルで熾烈な成績争いをしたのは、西本と江川が唯一である。

「やっぱり、江川さんに対しての対抗意識はずっとありました。世間的には江川さんがナンバーワンピッチャーって見られていましたから、いつかは抜きたいという思いが強くありましたね。勝ち星では一度も上にいったことないですから。僕が14勝すれば16勝、18勝すれば20勝するしね」

 防御率では79年、84年、85年と上回っているが、勝ち星だけは一度も抜けなかった。負けず嫌いの西本は、江川が登板する試合をモニターで観戦しながら、「負けろ、負けろ」と願っていたこともあった。とにかく、勝利数で江川に勝ちたくて練習に練習を重ねた。

【20勝はしたほうがいいよ】

 1982年の初めてのグアムキャンプの際は、あまりの気温の高さに選手たちは午前中の練習であがった。それでも西本は、夕方からビーチで涼んでいるナインを尻目に、同部屋だった後輩・槙原寛己を引き連れ砂浜でランニングをする。報道陣は面白がって、涼んでいるナインの前を通ってランニングしている西本を撮影し紙面に掲載。

 それを見たリーダー格の中畑清がわざわざ西本を呼び出し、「練習するのはいいことだけど、少しはみんなと合わせろ」と忠告。それでも西本はお構いなしに走った。

 中畑以外のチームメイトのなかにも「またニシが走ってるよ」と、しかめっ面する者がいたが、江川は違った。

 江川は、個人事業主のプロである以上、全体練習が終わったらあとは何をしようが自由という考えを持っており、西本がランニングしていても「走ってるんだ」というくらいにしか思わなかった。

 西本にしてみれば、江川が休んでいてくれるほうが望ましかった。休んでいるうちに練習をして差を埋める、ライバルに勝つための常套手段である。メディアはそのライバル関係を利用し、巨人の両エースが"犬猿の仲"として好き勝手に書き立てるほど、売り上げは伸びたという。

 80年代前半の巨人戦の視聴率は連日20%を超え、観客動員、グッズの売り上げは巨人史上もっとも経済効果を上げた時期だと言われている。西本、江川のほかにも、原辰徳、中畑清、篠塚和典、松本匡史、山倉和博、定岡正二......など、オールスター級の選手が揃いに揃っていた。

 野球ではライバルとして火花を散らしていた西本と江川だが、一歩グラウンドを離れると仲のいいふたりだったということは、チームメイト以外あまり知られていない。

「一緒にゴルフしたり、遊んだりしましたよ。嫌いだったらゴルフなんかしないじゃないですか。世間的には、中畑さんと原は僕らよりも仲がいいように映っていると思いますが、ふたりがゴルフをしたっていう話は聞いたことがないです。中畑さんも言っていましたが、意識的に原とは飲みに行ったり、つるむことはなかったと。でも、僕はそれがプロだと思いますね。江川さんと仲がよかったと言いましたが、個人的に江川さんとメシに行ったことは一度もありません。長嶋茂雄さんと王貞治さんも、ふたりで食事や飲みに行ったことがないと聞きました。不思議なことではなく、そういうのってわかりますよ」

 遠征に行っても、西本と江川はほとんど宿舎から出ることもなく、部屋で過ごしていたという。ただ、江川の周りには定岡、鹿取義隆、角盈男といった同世代が集まり、西本は一匹狼の如く、黙々と鍛錬に励んでいた。

 だからといってチームで浮いていることはなく、投手会の飲み会やゴルフコンペといったイベントには好んで参加し、江川ともども屈託なく楽しんだ。

「どれだけ頑張っても勝ち星を抜けない時、江川に言われたのが、『ニシな、20勝は違うぞ。だから、20勝はしたほうがいいよ』と。そういう話はしていただいてね。それで89年に中日に移籍して、すぐ20勝したんです。その時に、そういう意味だったのかというのはありました。19勝ではダメなんですね」

 1989年に巨人から中日に移籍した西本は、20勝6敗、防御率2.44の成績を挙げ、最多勝とカムバック賞に輝いた。過去に沢村賞、日本シリーズMVPのタイトルを獲得したことのある西本だったが、「これが江川さんの言っていたことかぁ」と20勝の金字塔はそれとは比べものにならなかった。自身でも20勝は尊いものだと理解していたが、それ以上に世間が掛け値なしに認めてくれる。あらためて20勝の偉大さを知った。

 西本にとって江川とはどのような存在だったのか。

「ライバルだったけど、あの江川さんの球をうらやましいと思いました。お金で買えるなら買いたいとさえ思ったくらいですから。江川さんのすばらしいところは、真っすぐとカーブの2種類だけで勝負できたこと。今のピッチャーを見ても、2つの球種で抑えられるピッチャーっていませんよね。ファウルをとる真っすぐ、カーブ、空振りをとる真っすぐ、カーブといったふうに、そういう技術もすごかった。やっぱり江川さんに敵うピッチャーはいないと思いますね、いまだに」

 西本に、これまで対戦したバッターで誰がすごかったと聞いても、絶対に「いない」と答える。それがプロの矜持でもある。それでも、西本にとって江川だけは特別である。

 いくら叩かれても、いつか見返してやろうと前を向き、罵声すらエネルギーに変え、たくましさとしたたかさを携えていた。それが西本であり、江川も同じだった。だから一生の同志として、今もその絆は切れないのだ。

(文中敬称略)

江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している