蹴球放浪家・後藤健生は世界中に知己( 知り合い、知人、親友の意味も)を持つ。その再会もまた、サッカー取材の楽しみのひとつである。しかも再会した人物が、会うたびに変化していくとなれば、また楽しみも増すというものだ。 ■シュトゥットガルト戦「…

 蹴球放浪家・後藤健生は世界中に知己( 知り合い、知人、親友の意味も)を持つ。その再会もまた、サッカー取材の楽しみのひとつである。しかも再会した人物が、会うたびに変化していくとなれば、また楽しみも増すというものだ。

■シュトゥットガルト戦「取材パス」所持

 1996年6月1日には、FIFA理事会で2002年ワールドカップ開催国を決める投票が行われることになっており、僕は“その瞬間”をソウルで迎えようと思って韓国に向かいました。5月29日に博多の森球技場(現、ベスト電器スタジアム)で日本とメキシコの試合があったので、それを見てからフェリーで韓国に向かいました。

 問題の6月1日には「2002年ワールドカップ誘致祈願国際蹴球大会」と称して、水原(スウォン)市の総合運動場で韓国代表対シュトゥットガルトの試合がありました。そのときにも、ハナさんは韓国協会から取材パスをもらっていて、僕の隣で試合を見ていました。もっとも、5月30日にはすでに「共同開催」が決まってしまっていたのですが……。

■韓国代表監督インタビューの際は「通訳」

 1997年のフランス・ワールドカップ予選のソウルでの日韓戦のときにも、彼女は日本チームの練習を見に来ていて、三浦知良(カズ)が出てくると「あっ、カズだ」とか言って、「ねぇねぇ、カズさん」とカズのところに寄って行って親しげに話をしていました。図々しさというか、なんというか、人にうまく取り入る才能はうらやましい限りです。

 1998年のフランス・ワールドカップのときも「開幕戦のチケット買えたんでぇ」とかいって、開幕戦の2、3日前に急に現われたりしました。

 もちろん、彼女の韓国語はネイティブ並みに上達していて、2001年に金正男(キム・ジョンナム)氏(元、韓国代表監督)のインタビューをするときにはハナさんに通訳をお願いしました。

 ところで、初めて会ったとき、彼女は留学生だったのですが、その前は某大手航空会社のスチュワーデスさんだったそうです(現代の用語では「キャビン・アテンダント」ですが、1990年代はまだ「スチュワーデス」が一般的でした)。これが、ハナさんの第1と第2の顔。そして、第3の顔が通訳としての顔です。

■社長から女優、銀座のママ、そして…

 その後は疎遠になっていたのですが、ときどき、忘れた頃に電話がかかってきました。「後藤さん、げんきぃ~」というあいさつの後、こういう会話が続きます。

「わたし、今、何をしてると思う~?」

 日本の実家に帰って来てから、彼女は土木、建築に関連する会社の社長になりました。会社をやっていたお兄さんが若くして亡くなったので、その会社を継いだんだそうです。

 その後は、アメリカがらみの会社の韓国支社を立ち上げる仕事をしていると言っていたこともありましたね。僕も商品の購入を依頼されたのですが、なんか怪しげな気がしたので丁重にお断りさせていただきましたが……。これが、第4と第5の顔……。

 その次は「私、今、女優やってんのよ~」という電話もありました。地元の地方都市でミュージカルをやっていて、釣りをテーマにした某有名映画にも出演したんだそうです。これが、第6の顔です。

 そうかと思うと、あるときは「私、今、銀座でママやってんの~。安くしとくから、後藤さんも来てね~」という電話がありました。

 銀座に行ってみると、銀座も銀座もど真ん中。銀座5丁目の立派な店でママをしていたのです。これが、僕が知っている限り最後の第7の顔でした。その後は連絡はありませんが、今はいったいどこで何をしているんでしょうかね?

 そろそろ、また電話がかかって来るかもしれません。

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