阿波野秀幸インタビュー(中編) 1988年、あと一歩のところで優勝を逃した近鉄だったが、その翌年、西武、オリックスとの三…

阿波野秀幸インタビュー(中編)

 1988年、あと一歩のところで優勝を逃した近鉄だったが、その翌年、西武、オリックスとの三つ巴の戦いを制し、見事優勝を果たす。なかでも10月12日の西武とのダブルヘッダーは、近鉄の主砲ラルフ・ブライアントの「アンビリーバブル」な活躍で、西武の息の根を止めた。阿波野秀幸が当時を振り返る。


1989年、巨人との日本シリーズ第1戦で勝ち投手となり仰木彬監督(写真左)と握手する阿波野秀幸氏

 photo by Sankei Visual

【ブライアントが1日4発の大活躍】

── 1989年は近鉄、西武、オリックスの三つ巴で、天王山は「10・12」の西武とのダブルヘッダーでした。

阿波野 仰木彬監督は、その日のダブルヘッダーの先発を決めかねていました。僕と高柳出己、どちらが第1戦でどちらが第2戦か。正直、「ここまできて決まっていないのか??」と僕らは思いましたが......。僕らはどっちが投げてもいいように、ふたりで同じ練習をして、同じタイミングで上がって、同じようにストレッチをしていたわけです。仰木さんは昼過ぎの第1戦のメンバー発表の直前になって、ようやく「先発・高柳」を決断しました。

── それは仰木監督の意図的な作戦だったのですか。

阿波野 それはわかりません。ナイトゲームの先発なら、寝ていてもいい時間なので、僕は静かになれる場所を探して、たしか西武球場の医務室で仮眠をとらせてもらいました。すると、地鳴りのような声援が響いてきて、いてもたってもいられず、試合をのぞきに行きました。

── 何が起きていたのですか。

阿波野 ラルフ・ブライアントがまず46号ソロ本塁打を放ち、2発目が47号満塁本塁打で5対5の同点に追いつきました。2本とも郭泰源さんからです。そこからテンションが上がり、もう寝ていられなくなりました。試合はその後、西武は渡辺久信をマウンドに送りました。この時、「やはり久信を投入してきたな」と思いました。というのは、ブライアントは久信の高めのストレートを空振りしているイメージしかありませんでした。西武バッテリーはいつもと同じ攻め方だったと思うのですが、ブライアントが放った打球はライトスタンド一直線。「アンビリーバブル!」とブライアント自身が言っていましたが、近鉄ベンチもみんなそんな心境でしたね。

── ブライアント選手は三振も多かったですが、固め打ち本塁打も多かったですね。

阿波野 それまで主砲だったリチャード・デービスが88年シーズンに途中退団したことにより、当時外国人選手枠は2つしかなく、出場機会がなかったブライアントが中日から移籍してきました。仰木監督と中西太コーチがウエスタンリーグの試合を視察して決めたそうです。ブライアントという選手はダメな時はまったくダメなんですが、スイッチが入った時はすごいわけです。西武とのダブルヘッダーの時も「アイツ、今日はやってくれるんじゃないか」という期待感はありました。三振は多かったですが、1試合3本塁打はあれがシーズン4度目でした。第2戦でも本塁打を放ち、西武に連勝。あのブライアントの神がかった活躍は今でも忘れられません。

── 1989年は最終的に勝率.568の近鉄が優勝、2位のオリックスが勝率.567、そして3位の西武が.566でした。

阿波野 この年の三つ巴は、引き分けの数の影響で、順位が1位から3位まで乱高下しました。「とにかく1試合も落とせない」という心理状態でしたね。近鉄ナインを強い気持ちで支えたのが、前年の『10・19』でした。本当に悔しい思いをしたことで、89年は最後まで気持ちを切らさず戦うことができた。そして10月14日、(自分は)中1日で優勝が決定したダイエー戦でもまた投げました。

── まさに2年越しの優勝でした。

阿波野 西武は近鉄に連敗したことで脱落。オリックスは13日に最下位のロッテに敗れ、近鉄がマジック1になりました。オリックスの結果はタクシーの運転手に教えてもらいました。「今日オリックス負けたで〜」と。それを聞いて「じゃあ、明日勝てば優勝だ!」と、気持ちが高ぶりました。あの年は大阪の街も三つ巴の戦いに一喜一憂していました。それも前年の『10・19』をテレビ放映してもらったことが大きかったですね。単なる「いい試合」で終わることなく、ファンの方たちと感動を分かち合うことができた。

── 当時のパ・リーグは、5球団が団結して西武を倒そうと「包囲網」が敷かれていたと聞きます。

阿波野 西武は森祗晶監督就任時の86年から94年まで、近鉄が優勝した89年を除き、9年間で8度優勝しています。巨人のV9に匹敵する難攻不落のチームでした。僕が入団してからも「西武を倒さずして優勝なし」という考えが浸透していました。僕や同じ左腕の小野和義、シュート投手の山崎慎太郎が、ローテーションを崩してまで西武戦に登板していました。

【日本シリーズで悪夢の4連敗】

── 1989年の巨人との日本シリーズは、19勝の阿波野さんと20勝の斎藤雅樹さんの同じ年の最多勝投手の投げ合いで、見応えがありました。

阿波野 第1戦は僕が勝ち、第5戦は斎藤が勝ちました。同期には荒木大輔や畠山準といった甲子園で活躍した選手もいますが、僕は市立桜丘高校(神奈川)、斎藤は市立川口高校(埼玉)と、同じ市立高校出身で甲子園未出場。最高の舞台で「斎藤、第1戦に投げて来いよ!」とワクワクした気持ちで迎えたのを覚えています。

── 第3戦の試合後、加藤哲郎さんの「巨人はロッテより弱い」発言がありました。

阿波野 テツ(加藤哲郎)は決して相手を見下した言い方をしたわけではなかったのですが、ペナントレースでは三つ巴の厳しい戦いをしてきたのはたしかで、マスコミにそのような表現をされてしまいました。ただ、ああいうところで謙虚なコメントを言うような男ではないので、気分が高揚していたのでしょう(笑)。僕たちはもうバスに乗っていて、ヒーローインタビューを聞きながら「早くやめて、もうこっちに来い。ホテルに帰るぞ」と思っていました。

── 結局、巨人との日本シリーズは3連勝からの4連敗で、日本一を逃しました。

阿波野 短期決戦は「流れ」ですね。近鉄は日本一未経験の選手ばかりで、昭和生まれの選手にとって、巨人は文字どおり大きな存在でしたね。最初「オレたちは巨人に通用するのかな?」という手探りのところから始まって、1勝1敗や2勝2敗みたいに拮抗した状態だったらまだしも、いきなり3連勝でしたからね。しかも本拠地で2連勝して、敵地・東京ドームで3勝目です。少し油断したのかもしれないですね。3勝2敗になっても「藤井寺球場に戻れば勝てる」という、根拠のない開き直りがあったのですが、本拠地での第6戦に負けて逆王手をかけられた時は、勢いは完全に巨人でした。

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阿波野秀幸(あわの・ひでゆき)/1964年7月28日、神奈川県出身。桜丘高から亜細亜大学を経て、86年のドラフトで近鉄、巨人、大洋による競合の末、近鉄が交渉権を獲得し入団。入団1年目に、最多奪三振王(201個)、新人王のタイトルを獲得。88年、伝説となる「10.19」のダブルヘッダーに連投し悲劇を経験。89年、最多奪三振(183個)と最多勝利(19勝)のタイトルを獲得し、悲願のリーグ優勝を果たす。その後、95年に巨人、98年に横浜(現・DeNA)に移籍。98年は50試合に登板するなど日本一に貢献。2000年に現役を引退。現役引退後は巨人、横浜、中日のコーチを歴任。現在は解説者として活躍の傍ら、ジャイアンツアカデミーのコーチも務めている