藤田浩雅インタビュー(前編) 藤田浩雅氏は、阪急(現・オリックス)時代の84年にこれまで田淵幸一氏しか果たしていなかった…

藤田浩雅インタビュー(前編)

 藤田浩雅氏は、阪急(現・オリックス)時代の84年にこれまで田淵幸一氏しか果たしていなかった「捕手の新人王」に輝き、88年には史上8人目の「代打逆転満塁サヨナラ本塁打」を記録。その後、巨人でもプレーし、引退後は巨人の寮長を務めるなど、選手たちを支えた。そんな藤田氏が自らの野球人生を振り返る。


抑えのアニマル・レスリー(写真右)から試合後にパンチを食らう藤田浩雅氏

 photo by Sankei Visual

【強肩強打、好リードで新人王に】

── 藤田さんの母校・御殿場西高(静岡)の2年先輩に杉本正さん(西武など)がいました。

藤田 杉本さんは3年夏の県大会で、2回戦、3回戦と連続ノーヒット・ノーラン。4回戦で負けましたが、打線がよかったら甲子園も夢ではなかったです。私の高校3年夏は、前年のセンバツで全国制覇した浜松商に3回戦で敗れました。母校が甲子園に出たのは1992年のセンバツで、ロッテで活躍した小野晋吾が高校2年の時でした。

── 高校卒業後は社会人野球の関東自動車工業に進まれます。

藤田 同期で、当時有名だった長嶋清幸(自動車工高→広島)でさえ、ドラフト外での入団でした。私は大昭和製紙と大昭和製紙白老のセレクションを受けましたが、縁がありませんでした。そこでトヨタ自動車系列の関東自動車工業に入社したのですが、初日に「ウチの野球部はクラブ活動程度だから、いつ辞めても大丈夫だからね」と(笑)。だから、プロなどはまったく頭になかったのですが、社会人2年目から阪急(現・オリックス)の三輪田勝利スカウトが見に来られていたらしいです。私は3年目にヤマハの補強選手として都市対抗に出場し、ドラフト3位で阪急に指名されたというわけです。

── 藤田さんといえば強肩で注目を浴びました。プロ2年目の84年には、盗塁阻止率.423という高い数字を残されています。

藤田 プロ1年目の83年に6試合出させてもらいました。その年、福本豊さんの連続盗塁王を13年でストップさせた大石大二郎さん(近鉄)の三盗をふたつ刺して、翌年から使ってもらえるようになりました。ショートの弓岡敬二郎さんが、よく相手のヒットエンドランや盗塁のサインを見破って教えてくれたのも役立ちました。

── その2年目の84年は、98試合に出場して83安打をマークし、打率.287、22本塁打、69打点で新人王に輝きました。安打数のわりに本塁打と打点が多いですね。

藤田 83年に打点王のタイトルを獲得された水谷実雄さんに「"割れ"を大切にして、ボールを上からつぶせ」とアドバイスされました。"割れ"というのは、右打者の場合、トップの位置をつくるときに右腕は捕手方向に引っ張り、左足は投手方向に踏み出します。この上半身と下半身が、違う方向の動きをしている状態のことです。それでいい成績を残すことができたのですが、無我夢中で自信などどこにもなかったです。

── 88年のことになりますが、代打逆転満塁サヨナラ本塁打を打っています。史上8人しかいない快挙です。

藤田 南海(現ソフトバンク)の吉田豊彦からですね。上田利治監督に「今日の吉田は変化球が決まっていないから、バットを短めに持って、初球からストレートを狙っていけ」とアドバイスされ、思いきり振った打球がレフトに飛んでいきました。

【往年の名投手をリード】

── 守備でも、84年の阪急は山田久志さん14勝、今井雄太郎さん21勝(最多勝、最優秀防御率)、佐藤義則さん17勝(最多奪三振)、山沖之彦さん11勝(最優秀救援)と、2ケタ勝利投手を4人も輩出しました。

藤田 山田さんの場合は「ここはシンカーがいいですか」と、おうかがい程度にサインを出し、基本は山田さんが配球を組み立てて投げてくれました。今井さんはシュートに自信があって、そのサインを出すと喜ばれました。今井さんは外角のストレートとカーブのコントロールが抜群で、内角のシュートを見せ球や勝負球に使ってのコンビネーションで打者を打ちとっていました。今井さんは、水島新司さんの野球漫画『あぶさん』で"酒仙投手"として有名ですが、実際に試合直後のロッカーで当時オリックスにいた門田博光さんと一緒に飲み始めていました(笑)。

── 佐藤さん、山沖さんはどういう投球でしたか?

藤田 佐藤さんは通称"ヨシボール"(縦に割れるカーブ)が武器で、とにかくスタミナがあって、200球くらいなら平気で投げられる投手でした。95年に41歳でノーヒット・ノーランを達成したのもうなずけます。当時私は佐藤さんの近所に住んでいて、登板日は必ず飲んで帰るので、私が運転手でしたね(笑)。でも、車中で野球を教わりました。山沖さんは191センチの長身から投げ下ろすストレート、フォーク、スライダーが持ち味の投手でした。

── 藤田さんで思い出すのが、ストッパーのアニマル・レスリーです。勝利後、握手代わりに藤田さんのマスクをグラブでパンチするのがお馴染みでした。

藤田 なぜか外国人選手に好かれるんですよね(笑)。左腕のガイ・ホフマンともバッテリーを組みました。ブーマー・ウェルズに誘われて食事をしていると、そこに大洋(現・DeNA)や阪神で活躍したジム・パチョレックが合流したこともありました。とくに英語を話せる訳でもないのに、なぜ呼ばれたのか......ひとりで飲んで、食べていました。

── ほかにバッテリーを組んだ代表的な投手に、星野伸之さんがいます。

藤田 星野はリードしていて、一番楽しかったです。ストレートは130キロ程度で、90キロのスローカーブと、110キロ台のフォーク。一つひとつのボールは決してすごいわけじゃないのですが、コントロールと緩急差で2ケタ勝利11回、通算176勝です。星野は、当時巨人の江川卓さんより奪三振率が高かった。いかに打者の読みを外して三振を取るか、勝たせるかは捕手冥利に尽きます。あの清原和博(当時、西武)が内角のストレートを見逃し三振なんて、最高に気持ちよかったですね。

【オリックスへの身売りは寝耳に水】

── 捕手として、思い出深い打者との対決は誰ですか。

藤田 落合博満さん(当時ロッテ)は2ストライクと追い込んでもファウルで粘って、その投手のウイニングショットを待っているような印象を受けました。とにかく選球眼がよかったです。際どいところをストライクと判定されると、「今の球はギリギリのストライク? まだ余裕があってのストライク?」と、よく球審に確認していましたね。

── 当時の阪急打線は、福本さん、松永浩美さん、ブーマーら豪快な打者が揃っていました。

藤田 たしかにいいバッターは揃っていました。その一方で、福良淳一さんと弓岡さんの二遊間コンビ、外野陣も山森雅文さん、福本さん、簑田浩二さんと鉄壁でした。投手陣を含めた守りの野球で勝つこともありました。上田監督が捕手出身というのもあったかもしれないですね。

── 88年に阪急からオリックスへの身売りがありました。

藤田 同じ年の少し前に、南海がダイエーに身売りされました。故・小林一三オーナーの「(宝塚)歌劇とブレーブスは手放すな」という遺言があると聞いていたのでホントかなと。発表当日は「西宮球場へ集合!」の声がかかりました。「えっ、身売り? 何かの間違いでは......」と思ったら本当で、衝撃でしたね。

── 阪急、オリックス時代の一番の思い出は何ですか。

藤田 やはり84年のリーグ優勝です。その後の日本シリーズでは広島と対戦し、高校時代から対戦していた長嶋清幸が相手にいて、感慨深いものがありました。長嶋は高校時代、内角の近いところにボールがいくと睨みつけてきたのですが、そのことを懐かしく思い出しましたね(笑)。

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藤田浩雅(ふじた・ひろまさ)/1961年10月3日、静岡県生まれ。御殿場西高から関東自動車に進み、82年のドラフトで阪急(現・オリックス)から3位で指名され入団。2年目の84年に打率.284、22本塁打、69打点の成績を挙げ新人王に輝く。阪急の正捕手として活躍し、抑えのアニマル・レスリーから勝利のあとパンチを食らうことが頻繁にあった。88年には史上8人目となる代打逆転満塁サヨナラ本塁打を記録。92年に巨人に移籍し、96年に現役を引退した。引退後は巨人のコーチ、寮長などを歴任。今も副寮長な立場で若手を支えている