来年、開催される大阪・関西万博を前に、蹴球放浪家・後藤健生は、ある思い出がよみがえった。万博の会場に、黒豹の呼び名で親しまれたポルトガルの英雄エウゼビオが降り立ったことがあるのだ。そうしたサプライズがあれば、来年の万博も盛り上がること間違…

 来年、開催される大阪・関西万博を前に、蹴球放浪家・後藤健生は、ある思い出がよみがえった。万博の会場に、黒豹の呼び名で親しまれたポルトガルの英雄エウゼビオが降り立ったことがあるのだ。そうしたサプライズがあれば、来年の万博も盛り上がること間違いなしだが…。

■万博が「ビッグイベント」だった時代

 2025年には、大阪で万国博覧会(万博、正式名称は「2025年日本国際博覧会」)が開催されますが、開催半年前になっても一向に盛り上がらないようです。

 1970年に大阪府吹田市の千里丘陵で開かれた「日本万国博覧会」は、のべ6000万人を超える入場者を集める大盛況でした。高度経済成長の真っ只中にあった日本では、万博は日本が先進国の仲間入りをしたことを国民レベルで実感するビッグイベントでした。

 しかし、それから半世紀以上が経過し、日本という国は「先進国の仲間入り」をしたときのような高揚感とはほど遠く、万博は単なる税金の無駄遣いにしか見えません。

 そもそも、巨大構造物が建ち並ぶ万博というイベントは「重厚長大産業」が経済発展の花形だった19世紀から20世紀の工業化時代のもの。現代のテクノロジーの最先端は、目に見えないほど小さな半導体や形のないソフトウェアなのですから、万博的なイベントにはまったく相応しくありません。

 世界中のアスリートを1か所に集めて、各国のメダルの数を争うオリンピック競技大会が“20世紀の遺物”だとしたら、万博というのはさらに古い19世紀的な催しのように見えます。

 万博が最も輝いていたのは「クリスタルパレス(水晶宮)」(鉄とガラスでできた建造物)が人々の度肝を抜いた1951年のロンドン万博や、エッフェル塔が注目を集めた1889年のパリ万博の頃だったのではないでしょうか(プレミアリーグのクリスタルパレスFCは、万博終了後にクリスタルパレスが移設された地域のクラブ)。

 この頃は、万博は世界の先進国が、その経済力を見せつけ合うビッグイベントでした。

■アポロ宇宙船が持ち帰った「月面の石」

 さて、前回の大阪万博が開かれた1970年は、僕が高校3年生のときでした。

 万博自体にも興味はありましたし、とくにアメリカ館に展示されている「月の石」は、ぜひ見てみたいと思いました。アメリカのアポロ宇宙船が持ち帰った月面の石のサンプルが展示されていたのです。

 でも、そのためにわざわざ大阪まで行くのも億劫です……。

 と迷っているとき、ポルトガルの強豪ベンフィカが来日するという発表がありました。

 ベンフィカは、皆さんご承知のように、ポルトガルで最も人気の高いクラブ。とくに、注目は1966年のワールドカップ・イングランド大会の得点王エウゼビオです。モザンビークの首都ロレンソ・マルケス(現在のマプト)生まれのエウゼビオは、現地のスポルティングの下部組織で育ちましたが、両クラブ間の激しい争奪戦の結果、ベンフィカと契約。アフリカに広大な海外領土を持っていたポルトガルには、その他にも大勢のアフリカ系の選手がいました。

■レアル・マドリード「6連覇」を阻んで優勝

 エウゼビオなど多数のアフリカ系選手を擁するポルトガル代表は、1966年ワールドカップで3位に入りました。また、ベンフィカは1961年にはヨーロッパ・チャンピオンズカップでレアル・マドリードの6連覇を阻んで優勝。1968年5月にウェンプリーで行われたチャンピオンズップ決勝では延長戦の末、マンチェスター・ユナイテッドに1対4で敗れたのですが、この試合は日本でもテレビ放映されたので(もちろん、生中継ではありません)、ベンフィカは当時の日本でも最も有名なクラブの一つでした。

 そのベンフィカが来日するというのです。第1戦は神戸の御崎サッカー場(神戸市立中央球技場)、第2戦と第3戦は東京・国立競技場となっていました。当然、東京での2試合は見に行きますが、神戸の試合も見に行きたいと思いました。

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