井上尚弥は、常に一撃で倒すことを念頭に戦っている photo by 山口フィニート裕朗5月6日、ボクシングの世界戦としては34年ぶりに東京ドームで行なわれる王者・井上尚弥と挑戦者ルイス・ネリとの世界4団体スーパーバンタム級タイトル戦。前評判…


井上尚弥は、常に一撃で倒すことを念頭に戦っている

 photo by 山口フィニート裕朗

5月6日、ボクシングの世界戦としては34年ぶりに東京ドームで行なわれる王者・井上尚弥と挑戦者ルイス・ネリとの世界4団体スーパーバンタム級タイトル戦。前評判は井上の優勢という見方が多数を占めるなか、ここでは井上自身の強さ、絶対王者としての流儀について、取材内容を元にしたベテラン記者の視点で、あらためて分析してみたい。

【一撃ノックアウトこそが井上の持ち味】

 2023年秋のインタビューで、とても印象に残る応答があった。コンビネーションブローについて訊ねた時だ。その時、30歳の4階級制覇チャンピオン・井上尚弥は、にっこりと笑って、こう答えた。

「コンビネーションブローって何でしょうね? ワンツーのことですか? ワンツースリーですか? 自分はそういうボクシングをしません。いつも一発(のパンチ)で倒す組み立てで戦っています」

 ボクシングをそれほど熱心に観ていない人なら、コンビネーションブローといわれてもピンとこないのかもしれない。要するにさまざまなパンチをつないで攻撃する技術である。オーソドックススタイル(右利きの構え)なら左ジャブから右ストレートの2発のパンチのつなぎをワンツー。そこから左フック、あるいはジャブを返したらワンツースリー。これも基本的なコンビネーションブローになる。

 プロボクシングでは遅くとも1950年代から、コンビネーションブローが攻撃技術の最先端をいっていた。さまざまなパンチのつなぎに、顔面、ボディへの打ち分けこそが、カッコよく、最も効果的と考えられた。ステップで前後左右に位置取りを変えながら、角度の違うパンチを6発、7発と打ちまくる。たとえばワシル・ロマチェンコ(ウクライナ/3階級制覇を果たした元世界チャンピオン)のような流麗なテクニシャンも現れる。

 井上は、先端技術を無視しようとしているのではない。そんなコンビネーション全盛時代は、実は10年以上も前から形を変えつつある。ワンツー、ワンツースリーと短く切り詰めた連続攻撃を積み重ね、最終的には"決めの一撃"でノックアウトを狙っていく。美しく、長いコンビネーションブローより、強打を積み上げる戦い方こそがトレンドであることを、井上はよく理解しているのだ。

「フルトン戦の8ラウンド、最初にチャンスを作った攻撃もコンビネーションではありません」

 井上が説明するのは2023年7月25日、WBC・WBOスーパーバンタム級統一王者のスティーブン・フルトン(アメリカ)を8ラウンドTKOで切り倒し、同階級でデビューを飾った試合だ。すばらしく高速のままつながれた、ふたつのパンチは左ボディジャブ、右ストレート。その一発目、左ジャブのボディ打ちは、動きの速い技巧派相手対策としてそれまでも多用してきたパンチだ。

「あの左ボディで、フルトンが止まったのがわかりました。パッと上のほうを見たら、フルトンの頭、手も動いていない。だから、右ストレートを上に打ったんです」

 大きくふらついたフルトンを、鋭いステップで追いかけ、豪快な左フックでなぎ倒す。これも咄嗟の判断。立ち上がってきたライバルを20発にも及ぶ連打の雨でズタズタに切り刻んだ。まさしく、井上の言うところの豪打の方程式で仕留めたのだ。

【戦力の奥行きに対戦者は驚くばかり】

 森合正範氏が著した書籍『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』で、井上と対戦した選手の多くが証言しているのは、その引き出しの多さである。時と場合によって、"とっておき"の武器を素早く選び出し、最もいい形にして戦いに挿入してくる。

 古い記憶ながら、ボクシングファンで俳優の片岡鶴太郎さんがこんなことを言っていたのを、つい思い出した。

「どんなアドリブでも、一度も振ったことがなければ当たりません」

 井上の実父でもある真吾トレーナーによると、その引き出しの数は数百にものぼる。リング上で実際に対峙している側からすると無尽蔵に思えるかもしれない。

 2018年5月25日に井上が初めてバンタム級の世界タイトル(WBA)を手にしたジェイミー・マクドネル(イギリス)戦のことだ。試合開始早々、身長176cmの長身、マクドネルの深い内懐に素早く切れ入って、左フックのボディブローで痛めつける。はや弱気の気配を見せたチャンピオンに、今度は同じ左フックをロングで打ち込んだ。ふらつくマクドネルの戦力はこれでほぼ壊滅。あとは破壊劇が残っていただけ。左ボディブローで倒し、連打で再度倒し、レフェリーがストップをコールする。その間、112秒。対戦者の顔色を見て、大胆な仕掛けに転じた機転は見事だった。

 アドリブといえば、この試合後、リング上のインタビューで井上はWBSS出場を宣言している。WBSS(ワールドボクシング・スーパーシリーズ)とは、世界チャンピオン認定4団体の壁を越え、世界から選ばれた8人で最強の座を争うトーナメント戦だった。実はこの時、参戦発表の予定はなかったという。井上がその時の判断で発言したのだ。圧倒的なTKO勝ちに熱狂するファンは、この最強への挑戦宣言でさらに燃え上がる。井上への注目度が爆発的になっていくのは、この時からだ。そして、井上はノニト・ドネア(フィリピン)との決勝(2019年11月7日)に劇的な勝利を収め、ものの見事にWBSS優勝を果たす。井上のアドリブ力は試合だけで発揮されるものではないのだ。

【念入りに塗り固められ続ける基本】

 ジムでの井上は、まず、基本を徹底して反復する。目の前に対戦者がいると仮想して、宙にパンチを投げ出すシャドーボクシングも念入りだ。シャドーボクシングは、1880年代、黒人として初めて世界チャンピオン(バンタム級)になったジョージ・ディクソン(カナダ)が発明したとされ、その後、140年以上、もっともベーシックなボクシングトレーニングとなっているが、井上は決しておざなりにはしない。動きの切れ味もすごい。費やすラウンド数も多い。

 2022年6月7日、ドネアとの再戦を、そんな基本によって高められた攻撃の積み重ねによって終結させる。2ラウンド、左フックでドネアを大きく泳がせること2度。力なく後退するライバルをジャブ、右ストレートで追う。ワンツーを追加。ロープ伝いに逃げるドネアの体がニュートラルコーナーにもたれかかったとき、またしてもワンツー。そして大きく弧を描き、わずかな時間差を作った左フック。実質5階級制覇の名チャンピオンの体は力なくキャンバスに投げ出された。この連続攻撃に用いたパンチは、いずれも教科書にあるとおり。高校生ボクサーが学ぶ基本のものだけ。それでも、徹底して磨き込めば、ここまでの破壊力を持つということだ。

 アドリブの力を生み出すのは、うずたかく積み上げた基本の素地があり、さらに膨大な引き出しが準備されてこそ。そして、なお、井上の攻撃力にはプラスアルファがある。ここぞという瞬間を見抜き、一気にフルアタックに転じる『思いきり』だ。

 WBSS初戦となったファン・カルロス・パヤノ(ドミニカ共和国)戦(2018年10月7日)だ。400戦以上のアマチュア経験を持つ老練なサウスポー、パヤノはスローペースで戦わせたらやっかいな相手だった。井上はそんなカリブ人に余裕を与えなかった。初回、まだ偵察戦のさなか、相手のアゴ先が丸見えだった。同時に脳裏に大きな5文字が映し出されたという。「いっちゃえ!」。大きく飛び込んでの右ストレート。炸裂。70秒の決着だった。

【慎重にして大胆なペースメイク】

 強い井上に、理由はまだある。危機管理能力とがまん強さである。

 ドネアとの第1戦、厳しい戦いを強いられたのは、2ラウンドに負った右眼か底骨折のせいだった。視界が二重になるなか、井上は右グローブで右目を隠し、なんとか照準を合わせながらラウンドを重ねた。驚くべきは、その緊急処置はその日の相手から学んだものだった。

 ギジェルモ・リゴンドー(キューバ)戦(2013年)の最終回、右目を痛めたドネアはグローブでその右目を覆いながら、最後の3分間を戦った。井上はすぐにこれを思い出し、そっくりまねをした。なおかつ、ドネアに最後まで悟らせなかった。

 昨年12月13日、マーロン・タパレス(フィリピン)とのスーパーバンタム級4団体統一戦。後ろ足に極度に重心を傾ける超守備的スタンスから、右フックの引っかけ一本に勝機を絞ってきたサウスポーに対し、井上はがまん強く戦い抜いた。ダウンを奪い、迎えた5ラウンド、井上はその右フックを一発だけ被弾した。そして、タパレスの余力を測った。

「ちょっと、いきすぎたかな、と」

 その後は鋭いパンチでペースを管理しながらも、安全をチェックしながらの試合になる。

「いろいろ仕掛けたんですけどね。(タパレスは)まったく乗ってきませんでした」

 フェイント、そのフェイントの一種であるドローイングバック(わざとすきを作って対戦者を呼び込む技術)は、対戦者であってもわかりにくい。観戦する側には、なお分からない。

「統一チャンピオンに対して被弾したのは一発だけで、KO勝ちです。その試合を苦戦とは言わせません」

 訴えのとおり。たとえ、静かな戦いに見えたとしても、井上はしっかりと下ごしらえをしていたのだ。その結果が10ラウンドのノックアウトにつながった。どんな展開であったとしても、観る側は井上尚弥を信頼しなければならない。

 そしてルイス・ネリとの戦いだ。双方の戦力を見比べ、考えつくありとあらゆる可能性を探っても、そこに偶然がない限り、井上の勝利以外の結論は導き出せない。その偶然があるとすれば序盤戦。危険なパンチャー、ネリがサウスポースタンスから打ち込む左が当たったとき。このメキシカンはこの一発から一気に左右のパンチをつるべ打ちにしてくる。そうなれば、対処法を思いつくいとまもない。ただ、およそ考えにくいことながら、井上がよほどKOを急ぐか、集中力が切れる一瞬がなければ、偶然の衝突などありえないとみる。

 私たちは「5・6東京ドーム」で、再び、井上の偉大な実力を確認することになる。