パリ五輪選考会200m背泳ぎ後に観客の声援にこたえる入江陵介 photo by Kishimoto Tsutomu 競泳・男子背泳ぎの第一人者として活躍してきた入江陵介(イトマン東進)が4月3日、東京都内で記者会見を開き、現役引退を表明した…
パリ五輪選考会200m背泳ぎ後に観客の声援にこたえる入江陵介
photo by Kishimoto Tsutomu
競泳・男子背泳ぎの第一人者として活躍してきた入江陵介(イトマン東進)が4月3日、東京都内で記者会見を開き、現役引退を表明した。
「ここまで長く、大好きな水泳を続けることができてよかったです。これも周りの方々のサポートがなければできなかったことです。自分自身、オリンピックや世界水泳の金メダルを手にすることはできませんでしたが、挑戦できたことについて自分を誇りに思います」
現在34歳の入江はコロナ禍の2020年を除き昨シーズンまで17年連続、人生の半分を日本代表として過ごすなか、4大会連続出場のオリンピックで3個、8大会連続出場の世界水泳選手権では4個のメダルを獲得。2014年以降は世界の表彰台から遠ざかる時期が続きながらも、それでも戦い抜いた姿は、日本の競泳史に深く刻まれるものだった。
(文中敬称略)
【最後は200mで燃え尽きる】
ラストレースは、自身の代名詞でもある種目となった。
3月22日、国際大会代表選手選考会の200m背泳ぎ決勝。100m背泳ぎでは(2位で記録的条件をクリアできず)400mメドレーリレーの対象選手(優勝者)からも漏れた入江陵介(イトマン東進)にとっては、パリ五輪日本代表の座を賭けた最後の挑戦だった。
代表内定条件は決勝で上位2位以内に入ることと、五輪派遣標準記録III(1分56秒92)を突破すること。いずれが欠けても、パリ行きの切符をつかむことはできない。
ラスト50m、最後のターンを2番手で折り返した入江は、長い腕を生かした大きな泳ぎでゴールを目指す。だが、伸びない。これまで第一人者たらしめてきたレース後半の圧倒的な強さは影を潜めたまま、先頭を行く竹原秀一(東洋大/はるおか赤間)との差が徐々に広がっていく。
入江が初めて日本代表入りした時、まだ2歳だった竹原は、昨年の福岡世界水泳選手権で初めて代表入りした伸び盛りの大学1年生(現・2年)。今大会でも予選、準決勝と立て続けに派遣標準記録も上回る自己ベストを更新し、1位通過で入江の定位置だった4レーンで決勝を迎えていた。「入江さんとともにオリンピックに」という思いを胸にスタート直後から終始リードを奪い、あとは自分自身との戦いに挑んでいた。
入江は残り20m付近で3番手に落ちた。記者席にいる松田丈志が思わず首を垂れる。五輪4大会連続出場、3大会連続でメダリストとなった松田にとって、長年、日本代表の後輩であり同士だった入江が五輪から遠ざかっていく姿は、受け入れ難い現実だったのか。それでも数秒後、思い直したように再びプールに視線を戻す──世界で戦い続けてきた者にしか共有できない思いが、そこにはあったのかもしれない。
竹原は唯一、派遣標準記録を突破して初のオリンピック代表に内定。その喜びを噛み締めるかのように、背中を水に預け、天を仰いで感涙に浸る。
入江は、1分58秒37で3位。レース結果が表示された電光掲示板をしばらく見つめた後、隣のレーンに近づく。複雑な表情で入江の腕に顔を埋めた竹原に声をかけた。
「おめでとう。ここからだよ、頑張って」
プールサイドに上がった入江はプールに向かって一礼すると、観客からの万雷の拍手に手を上げて応える。その表情は晴れやかだった。パリ五輪に行けなかった悔しさよりも、背負い続けてきたものから解放された安堵感のような感情が入り混じっていたようにも見えた。
「昨季からこの冬にかけては肩のケガ、体調不良、心の問題もありましたが、この舞台に立って戦い抜けたことはよかったと思います。最後はバテてしまいましたけど、やれることはやりました。竹原くんが(五輪に)行ってくれてうれしいです。
ずっと競泳一本で生きてきて、いろんな時代、青春を投げ打ってやってきたので、オリンピックを決められなかったことは悔しいです。ただ、ありがたいことに16歳から代表に選ばれ、代表から落ちたのが(今回)初めてなので、不思議な感じではあります。日本代表は家族、ホームのような感じなので、悔しさより、寂しい気持ちのほうが強いですかね。
今回は初代表、初オリンピックという選手が多いですけど、フレッシュなチームで頑張ってほしいと思います」
200m背泳ぎでパリ行きを決めた竹原秀一を称える入江
photo by Kishimoto Tsutomu
【日の丸を背負い続けた17年間の栄光と葛藤】
2006年、高校2年生だった16歳の時からである。入江は、世界の動きが止まったコロナ禍の2020年を除いて17年連続で日の丸を背負い続けてきた。
日本の競泳界では春先に代表選考会(主に日本選手権)が行なわれ、その成績によって夏の主要国際大会の日本代表を選出することが通例となっている。特に4年に1度のオリンピック選考会の個人種目は2004年以降、決勝で「2位以内+派遣標準記録突破」という条件が厳格に課されてきた。実績はまったく考慮されない、一発勝負である。派遣標準記録は、近年の実績を元に設定されるものでかつては世界大会の16位相当、今回は10位相当と、他の競技では類を見ない厳しい基準が設けられてきた。コンマ数秒で涙した者は数知れないが、一方でその厳しさは、世界大会の本番で戦ううえでの試金石にもなってきた。
200mを軸に一気にトップシーンへと駆け上がった入江は、オリンピックには2008年北京大会から4大会連続で出場。世界水泳選手権には2009年ローマ大会から8大会連続出場してきた。2012年ロンドン五輪では100m背泳ぎ3位、200m背泳ぎ2位、4×100mメドレーリレー2位と3つのメダルを獲得し、世界水泳でも2013年バルセロナ大会までの3大会で個人3、リレー1の計4個のメダルを獲得している。
その間、入江が挑んだ相手は世界の競泳史に名を残す兵(つわもの)ばかりだった。
百戦錬磨のアーロン・ピアソル、「史上最強のスイマー」マイケル・フェルプスと個人メドレーで切磋琢磨していたライアン・ロクテ、ロンドン五輪200mで頂点に立つタイラー・クラリー。当時のアメリカ勢の牙城と戦い続けたことを踏まえれば、金メダルを手にできなかったとはいえ、すばらしい実績である。
その反面、入江は「日本のエース」という看板との折り合いを計り兼ねてもいた。平泳ぎで五輪2冠連覇を達成した北島康介の後を継ぐ者としてのプレッシャーは、時にモチベーションとなったが、時間を経るごとに重いものになっていった。
結果的に、個人種目でオリンピック、世界水泳の表彰台に上ったのは2012年ロンドン五輪が最後のこと。その後の競技人生は、葛藤との戦いでもあった。
国内で勝ち続けても、世界水泳やオリンピックではかつて自身が上っていた表彰台からも距離が遠のいていく──そんな状況が続いていく。世界が進化する一方、国内では入江を脅かす存在の台頭がなかったことが大きな要因のひとつでもあったが、表彰台の一番の高い所を目指し続けてきた入江にとって、世界における現実を目の当たりにすることは難しいものだった。そんななか、時に"ガラス"が割れたかのような苦しい胸の内を、コメントで発したこともあった。
2013年のバルセロナ世界水泳の200m背泳ぎでメダルを逃すと(4位)テレビのフラッシュインタビューで引退を仄めかし、2016年リオ五輪で200m背泳ぎ8位に終わったときには、ロンドン五輪からの4年間を振り返り、「自分は賞味期限が切れた人間なのかなと思ったりした」と発言したりもした。
「メダルを(世界大会で)取れていた時期から決勝に残れない時期も出てきたりして、苦しい時期のほうが圧倒的に長かったかなと思います」と入江は、振り返る。
記録面では100m背泳ぎ52秒24、200m背泳ぎ1分52秒51の自己ベストは今も日本記録として残るが、樹立したのは15年前の2009年。その年の5月にはオーストラリアで当時の200m背泳ぎの世界記録を上回る快泳を見せながら、高速水着の開発競争に世界水連の規則が後追い対応となる混乱期だったため、入江の着用水着が審査で認可されず、「幻の世界記録」に終わったこともあった。
記録が指針となる競技のアスリートにとって、自己ベスト更新は何よりのモチベーションとなるが、入江はこの点でも長い間、葛藤を抱えてきたといえる。
【思いは後輩、そして同士へ】
それでも、泳ぎ続けてきた。もっと早く、第一線から身を引くこともできたのかもしれないが、4×100mメドレーリレーも含め日本代表への思い、そして自身の後継者が出てくるまではやめられないという思いも強かったという。
入江はキャリアのベストレースとして挙げた「2012年ロンドン五輪のメドレーリレー」を例に、その理由を説明する。
「(北島)康介さん、(松田)丈志さん、(藤井)拓郎さんと喜びを分かち合った後に観客席を見ると、代表チームや日本人(のお客さん)が飛び跳ねたり泣いたりして喜んでいたんです。あの時の光景は今でもはっきり覚えています。競泳は個人競技ですけど、リレーは別。オリンピックではそれ以降、表彰台に上れていませんし、世界水泳でも苦しい状況が続いていますが、どんなに厳しい状況でもあの風景を見たいと思っていましたし、また、自分が少しずつ記録面で下がってきた時には、日本が再び世界で戦えるようになるためにも、(負けるつもりはないが)自分を追い越していってほしいという思いで泳ぎ続けていました」
パリ五輪選考会では、図らずも"同士"の心を突き動かした。
入江が最後の力を振り絞って泳ぎ続ける姿に、200m平泳ぎ決勝を控えていた鈴木聡美(ミキハウス)は、「ウルッときました。200mに苦手意識を持つことなく臨もうと思った」と振り返る。
33歳の鈴木は2012年ロンドン五輪で平泳ぎ2種目、400mメドレーリレーと3つのメダルを獲得し、入江とともに日本代表を引っ張った選手。その後、思うような泳ぎができず、2016年のリオ五輪に出場も、東京五輪への出場は果たせなかった。だが、昨季から再び上昇気流に乗り、この大会でも100m平泳ぎで14年ぶりに自己ベストを更新。そして200mでも見事にパリ五輪への切符をつかんだ。
種目が違えど、年齢を重ねた選手が200mを泳ぎきる練習を継続することがどれだけ大変なことか。高いレベルで100mと両立することがいかに至難か。ふたりは、言葉こそ交わさなくてもそのことを長い競技生活を通して身を持って共有してきた同士である。入江にとって選考会での200mは3年ぶり、鈴木は正面から200mの恐怖心を抱えながらも挑んだ。相応の覚悟がなければできないことである。
「(鈴木)聡美さんは1つ下。ロンドン五輪で活躍した仲間でもあるので、今の状態は本当に頼もしいですよね」
取材エリアで鈴木の勇姿を見届けた入江はそう感想を述べた後、最後に自身の競技生活について総括した。
「やり残したことはないですね。やりすぎちゃったかなという思いはあります、はい」
レースから2週間後の引退会見ではスーツ姿に身を包み、晴れやかに、時に涙を浮かべながらその思いを語った。今後はイトマンSSでの普及活動、大学院進学、幼少からの夢だったアナウンサー活動などの展望も入れていくという。
会見の最後には、2008年北京五輪で同室だった北島がサプライズ登場。思わず涙した入江に北島は、「陵介は本当に真面目。自分なんかはいかにサボるしか考えていなかったのに」と笑わせた後、「僕が引退した後も日本代表の中心として水泳界を牽引してくれた。これからは、水泳以外のことで自分のために時間を使ってほしい」と労った。
ひとつの大きな時代が幕を閉じ、新たな時代へ。
そして入江は新たな人生を歩んでいく。
北島康介(右)から花束を贈呈される入江陵介
photo by sportiva
【Profile】入江陵介(いりえ・りょうすけ)/1990年1月24日生まれ、大阪府出身。0歳からベビースイミングを始め、イトマンSSを拠点に中学時代から本格的に背泳ぎに取り組み始める。100m、200mで中学新記録を樹立すると、近畿大附高1年時の2005年のインターハイ200m背泳ぎで優勝。2006年の日本選手権200m背泳ぎで高校新記録を樹立し、初のトップ日本代表入り(夏のパンパシフィック選手権)。以来、2023年シーズンまで17年連続で主要国際大会の日本代表入りを果たしている。代表選考会(2011年、2023年以外は日本選手権)の成績は、100m背泳ぎは2011年の初制覇を皮切りに2014年から10連覇を含む計12回、200m背泳ぎは2007年からの10連覇を含む計14回の優勝を数える。オリンピックは2008年北京大会から4大会連続出場で計3、世界水泳選手権は2009年ローマ大会から8大会連続出場で計4のメダルを獲得している。